藤原 龍一郎さんに聞く

(2019年「熾」9月号掲載)

                     斉藤光悦


  ―昨年(2018)、中井茂さんの歌集の批評会でお会いして以来ですね。本日はよろしくお願いします。さて、藤原龍一郎さんといえば固有名詞を多用する歌人として有名ですが、「短歌と固有名詞」についてまずお話しください。
(藤原)固有名詞といっても、私が多用するのは地名などではなく人名ですね。人名というのは、時代の表象として人々の記憶に残っているものだと思います。私は1985年から放送局のニッポン放送に勤めましたが、芸能人とか旬の人たちが仕事に関わっているなかで、その人たちの名前は時代のシンボルだと強く思いました。とくに会社に入って一年目の四月にアイドルの岡田有希子が飛び降り自殺をしました。十七歳でした。あれは私にとってものすごく衝撃的で、その時に作った歌が「散華とはついにかえらぬあの春の岡田有希子のことなのだろう」です。こういう歌を作って、作歌のスタンスが決まりました。第一歌集『夢見る頃を過ぎても』の後書にもこう書いています。「どうせ今つくられている短歌など、遅かれ早かれ腐ってしまうのである。それなら、腐りやすくとも、瞬間的に時代そのものとスパークするものを、自分の表現として選びたい」と。
―固有名詞の多用に関して、一過性の固有名詞では後の世代が読んでも分からない、すなわち古びるという批判もあったように覚えています。
(藤原)さんざん言われましたね。しかし、自分は時代とふれあって、自分の感じている時代を歌っているという自信がありました。長持ちさせるために固有名詞を使わないで、普遍的な言葉ばかりで構成すると、いつの時代の歌かわからないということになってしまう。そんな歌を作るくらいなら、古びることを覚悟で人名などの固有名詞を入れていったほうが、その時代に突き刺さっていくのではないかと思いました。ただ、人名を使う時でも、力道山とか長嶋茂雄、大鵬、美空ひばりだとか時代のシンボルとしてすでに認知されているような人の名前は使いたくないと思っています。メインストリームに対してのサブカルチャー、私はこれを「カウンターカルチャー」と呼んでいますが、その世界の人名を取り入れたい。たとえば、「ああ夕陽 あしたのジョーの明日(あした)さえすでにはるけき昨日とならば」「ほろびたるもの四畳半、バリケード、ロマンポルノの片桐夕子」などですね。
―作歌上の信念をそのまま歌にしたような歌が「世界とは時代とは数限りなき固有名詞の羅列にすぎぬ」ですね。第一歌集の最後の一首です。さて、固有名詞だけでなく、「概念語」の頻出も栗木京子さんなどから指摘されています。
(藤原)概念語は漢語ですが、表意文字の組み合わせですから、固有名詞と同じように情報量は多いのです。概念語以外の部分とうまく組み合わせて歌を構築すると、その漢語が持っている以上のイメージを放つことがあります。たとえば「オレンジ・カード千円分の逃亡をさもなくばわが詩的悲傷を」という歌。「逃亡」「詩的悲傷」という漢語が入っていますが、この詩的悲傷なんて何だか分からないですよね。意味があってないような言葉。ムードしかないような言葉です。ただ、ここから立ちのぼるムードは捨てがたいと思って、これを結句に置きました。ただし、詩的悲傷という言葉を使うときに、文学的なにおいがあるものを他の部分に入れてしまうと、詩的悲傷がさらに抽象化されてしまうから、「オレンジ・カード」を持ってきているわけです。
―概念語と他の具体との組み合わせが面白いと思います。
(藤原)そうですね。組み合わせですね。「アクション仮面」とか「オレンジ・カードとか取り入れて、一首の中で上の句から下の句まで同じトーンにならないようにしています。
―最近の作歌の方向性はどうですか。
 角川の『短歌』に「一九九九」というタイトルですべてに詞書を付けた十首を発表しました。

ついにその年が来てしまった。
ノストラダムスの大予言その年なれば七月以後の世界朦朧
カルロス・ゴーン四十五歳、日産のCOO就任。
日仏同盟かつてあらざりとめどなく驟雨はげしく深淵に降る
九月三十日 東海村の民間燃料加工会社JCOで臨界事故。
災厄は初秋に勃り臨界の東海村に犠牲死二人

 この連作のように、最近は固有名詞そのものよりも、時代をピンポイントで見ていくという方向に興味が移ってきています。
―「短歌は私性に根ざした述志の詩」、「自分の短歌表現をもって短歌史に参加する」「文体のオリジナリティこそ短歌の志」といった宣言的な数々の発言をされてきていますが、これについて、具体的に教えてください。
 基本として、岡井隆さんが『現代短歌入門』で言った「一首の裏には私がいる」というのはそのとおりだと思います。発話者というのは、発話をしている一首の裏に必ず存在する。それが私性に根ざすということです。述志というのは、なにも幕末の志士のような勇ましいことを言うだけではなくて、つらいとか、明日が見えないとか、たとえ弱音を吐いていても、心を述べていることだと思います。それをどう日常の言葉とは違う言葉で言い表すことができるか。短歌は経済的には何ら生産性に寄与しないものです。それなのに短歌をなぜ作るのか。私は時代と対決したい。短歌という表現を自分で選んだ以上、極端に言えば短歌史を更新していきたい、あるいは前に推し進めていきたいと思います。
「文体のオリジナリティこそ短歌の志」というのは、五七五七七という枠が決まっている以上、あるていど文体というのは決まってきてしまいますよね。たとえば、構成でいえば、上の句が叙景で下の句が心理とかね。またその逆とか。だからそういうのは駆使しても良いが、そのときにやはり、ああこれは藤原龍一郎だな、と思われる歌をつくりたいということです。それを、あえて第二歌集の後書に書きました。この点については、高瀬一誌が身近にいたということがすごく大きい。私は短歌人で高瀬さんに選歌してもらっていたのですが、そのときに高瀬さんが言っていた言葉が、他の人と似ていない歌をつくれ、でした。文章でも書かれ、口でも言われました。人と似ていない歌ってどうなんだろう?って思った時に、高瀬さんの歌って誰とも似ていないじゃないですか。ああ、この人は、有言実行なんだと。そう思った時に、まあ高瀬文体をまねしちゃいけないから、まねはしないが、なにかきっと自分の文体って作り上げられるんじゃないだろうかと思った。だから、固有名詞を多用するとか、概念語をたたみかけていくとか、いうようなことをやりました。あと、テクニカルなことでいうと、自分で戒めているのは、オノマトペを絶対に使わないということです。それと、動詞を形容する副詞句、さっと走る、そういうのもできるだけ使わないようにしています。そういうのを使わないことでもひとつの独自の文体となり得ます。
―副詞句。ゆっくり歩くとか、ゆるりと歩くとか、ですね。それは、なぜですか?
 オノマトペは安易ですよね。もうひとりの師である小中英之にオノマトペを使うなと言われたのです。なぜかというと、やすやすとできたとか、雨がしとしと降るとかね、そういう言い方というのは、昔からある言い方なのであって、お前が見ているこの雨はしとしとなんて降っていないだろう、と。そのときに、オノマトペを使うくらいなら、オノマトペと同じ音数で、きっともっとふさわしい言葉があるはずだと言われました。高瀬さんの言葉と小中さんの教えが私の文体のオリジナリティの源泉となった言葉です。
―小中さんと高瀬さんが、藤原さんの師匠ということになりますか?
(藤原)短歌人は先生というのはいないかたちでやっているので、おふたりが存命のときは師とは言いませんでしたが、亡くなられたので、師といってもいいと思いますね。明らかに教えてくれたわけですし、確実に方向付けをしてくれました。
―いま、とくに注目している歌人は?
(藤原)この人はうまいと思うのは栗木京子さんですね。そして、米川千嘉子さん、小島ゆかりさん。この三人が現在の女性歌人の三強ですよね。栗木さんは『ランプの精』で毎日芸術賞を受賞したのですが、そのなかにすごい歌があるなと思ったのは、「女子トイレの多さは少女(をとめ)のあきらめし夢の数なり大劇場の午後」です。女子トイレの数の多さを、できることなら舞台に立ちたかったが立てなかった人たちのあきらめた夢の数と言い当てたのがすごい。こういう鋭い見方をしたいですよね。栗木さんはわりと事件性のある歌も歌います。西鉄バスジャック事件のときの「普段着で人を殺すなバスジャックせし少年のひらひらのシャツ」。私が見ている女性歌人のなかでは時代に敏感に反応している人で、通俗的なこともあえて辞さない人ですね。
 米川さんの歌集『牡丹の伯母』は時代への批評の歌があるんですが、米川さんは逃げないですね。たとえば「答弁するうすい一輪〈環境〉も〈女〉もこんなに寒く突つ立つ」とか、「子に見せてならないものは死にあらず性ならずこのうす笑ひの答弁」のような歌。馬場あき子さんゆずりといえば言えるかも知れません。時代に対して正攻法で向かっていきます。
 そういえば、忘れてはいけない出色の歌集がありました。水原紫苑さんの「えぴすとれー」です。近年では指折りのすごい歌集だと思います。
―水原さんは『びあんか』でデビューしましたが、語彙、韻律、最初からすごかった。これは天才的だと思ったのを覚えています。
(藤原)一時期、歌舞伎や能楽を素材にしたりして耽美的なほうにいっていましたが、今の歌集は彼女の美的な文体はそのままに、きわめて先鋭的に世界と時代とその状況をみつめて、鋭く毒に満ちた文明批評の作品を毅然とした姿勢でつくっています。「鳥けものみな引き連れてデモにゆく少年の永遠に知らぬ日本語」「相模原ネオナチ殺人政権の正身(むざね)見たりとのちに言ふべし」「天皇を最後の砦とするごときデモクラシーの倒立あはれ」などですが、引用したい歌はまだまだあります。彼女は、喜怒哀楽の「怒」の思いを、卓抜な想像力を基盤としたあざやかな修辞力で、さまざまな暗喩を駆使して、一首の歌に構築していて、正直言って羨望するほどの力です。
―男性歌人についてはどうでしょう?
(藤原)男性歌人に対してはやや辛口にならざるを得ないところがあります。同世代や先輩方みなさん、若い頃の歌はやっぱり魅力に溢れています。ただ年齢を重ねるとともに、読者にぴんとくる歌が減ってくるのは仕方ないことなのかもしれません。そういう意味でも、生涯ひとところにとどまることなく変わり続けた塚本邦雄はすごい歌人だと思っています。
―長時間、ありがとうございました。

 

 

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