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『歌壇』1月号「初句の引力」掲載

「吠えよ這えよと叫ばんか」に導かれて

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@吠えよ這えよ十月の女行くところ天は緋色でなければならぬ
佐藤信弘『海胆と星雲』

A叫ばんかかの抽象のかの雲の楡のまうえのたまらなき朝

加藤克巳『球体』

Bおいそこの学部長、寝てんぢやねえよとわが言はざれば静かなり会議
島田修三『蓬歳断想録』
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 ベートーベンの交響曲『運命』やチャイコフスキーのピアノ協奏曲1番のように、その圧倒的な出だしで聴衆の心を鷲づかみにするという芸当に憧れない者はいないだろう。それは音楽家だけではなく文芸に携わる者にも言えるのであり、すでに名歌・秀歌が長い歴史のうえに絢爛と積み重なり、さらには日々おびただしい作品が生まれ続けている短歌の世界においては、自分の生み出す作品に目をとめてもらい鑑賞の栄に浴すには、初句のインパクトが重要であることは言うまでもない。また初句は、作者自身のクリエイティビティを支配するという意味でも重要である。すぐれた初句はすぐれた後続を生む。「自己とは、内部からの様々な声の第一の聞き手である」という。初句が意識に上ることによって、さらに内部からの声は増幅され、それらの声を吸い上げ、自分自身を鼓舞しながら結句へと言葉をつなげていく。ただ、衝撃的な初句は結句で吸収しきれずに失敗することが多いとも言われる。それはそのとおりかもしれないが、乾坤一擲の初句を置くという志を持たずして作品世界の独自性を獲得することは望めないだろう。
 一首目、佐藤信弘の歌は「吠えよ這えよ」という一字字余りの初句で始まる。まずこの唯一性に惹かれる。命令形で始まるのが珍しいのではない。吠えると這う。ふたつの動詞が並列で命令形となっている。さらには、吠えたり這ったりするのはどんなやつだ、と読者を引きつける。人間ではなさそうだ。ではどんな動物か、と考えていると「十月の女」という言葉。女が吠える、這うなどありうるか、とまた考えていると、天は緋色でなければならないと飛躍的に断定して歌は終わる。読者のなまじっかな理解や鑑賞などいらぬというような孤高の姿勢で、己の精神世界を唯一独自の形態で表出している。
 その佐藤の師が加藤克巳である。「叫ばんか」の歌は、第四回迢空賞を受賞した『球体』の巻頭を一首独立で飾った。初句で詠嘆し、「抽象」と「雲」の関係性に読者を宙づりにしながら「かの」の連続で下句へと読者を性急に誘導し、楡という実景らしい素材が登場し、最後に「たまらなき朝」と日常語的な体言で止める。意味的には難解でありながら、愛唱性のある歌である。一度読んだあと、もう暗誦することができたほどだ。それ以来私には、抽象という言葉がいつもこの歌の律動を伴ってやってくるようになった。佐藤信弘はこの歌について「現代人の抽象衝動を短歌形式に真正面から盛りこんだ作品がここに誕生した」と『加藤克巳の世界』で評している。
 佐藤、加藤とは趣きを異にするが、島田の歌も、初句からがつんとやる、という意味では印象に強すぎるほどに強く残る。音数で区切れば初句は「おいそこの」であり、それだと初句に意味はないが、初句を「おいそこの学部長」までととらえて読みたい。かなりの破調のようでありながら音数は三十一をわずかに上回るだけであって、定型をかなり意識している。ふっきれた挑発的な表現をあえて選び取ったからには、定型を踏み外さないという”ド根性”が透けて見えるようである。破調ではあっても乱調ではなく、諧謔ではあっても悪ふざけではない。筆者の歌誌のインタビューで彼は、この歌を作歌の転機になった忘れ得ぬ作品と述懐していた。

 

 

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