加藤克巳と近藤芳美

短歌革新への鮮烈な意志

熾2015年6月号 加藤克巳生誕100年特集号


 世界文学が二〇世紀を代表する小説『失われた時を求めて』の第一篇を生み出した頃、日本では後に短歌という詩型の革新を担う二人が生まれた。ともに戦前、戦時下に青春期を送り、軍隊に召集され、敗戦後まもなく北浦和という東京の周縁で出会う。近藤芳美と加藤克巳。三十代前半の二人は、中心的存在として「新歌人集団」を結成、短歌の世界の旧弊打破に、命がけで取り組む。二人は文学や絵画、音楽など西欧芸術の最先端に感化された青春期を送っており、それゆえに、滅亡さえ危惧された短歌の現状に対する危機感は強かった。そしてもう一つの重要な共通点は、短歌は強く鮮烈な意志にこそ根拠があるという確固とした信念を持っていたことである。
 歌壇への登場は加藤克巳の方が早く、しかも加藤のデビューは華々しかった。加藤は、昭和初期の新芸術派短歌運動に属したが、そこで超現実主義、野獣主義、未来派、立体主義等に出会う。つまり世界最先端の芸術潮流を昭和初期において摂取していた。その成果が昭和一二年、二十二歳の時に出版された第一歌集『螺旋階段』である。
のばす手にからまる白い雨のおと北むきの心午(ひる)を眩みぬ    「螺旋階段」
旗ばかり人ばかりの駅高い雲に弾丸(たま)の速度を見送ってゐる
 後に加藤は当時のことを、「外国映画ばかり見ていた。絵画もシュールレアリスム、キュービズム、アブストラクトの絵画を見、外国芸術との接触、吸収を激しくやった。自分は国学院で伝統、古典を教わった。伝統が基礎にあってそのうえでの革新だ」と回顧している。しかし加藤は、翌昭和一三年、軍に入営、長い沈黙期に入る。
 一方の近藤芳美。日本統治下の朝鮮で生まれ幼少期を過ごし、十三歳で広島の学校に入学、後は広島高校、東京工業大学に進む。十八歳の広島高時代にアララギに入会。斎藤茂吉、中村憲吉、土屋文明の三人を生涯の師と決め、彼らの後を追う。近藤の特徴とされる即物的な表現は土屋文明の影響だと自ら認めている。
 大学では建築科を専攻。当時は近代建築の発祥の時期で、新建築運動があった。「合目的主義」とか「用の美」という言葉や、「すべての装飾を捨て去り、必要なものだけを表現する」という考え方が主張されていた。近藤は、建築を通して世界の同時性に眼を開きながら、世界文学の最先端にも敏感だった。岩波文庫から出る西洋の古典を読み出して文学に触れるが、日本文学に対してはその卑小さに対する嫌悪感が強かった。この近藤も、昭和十五年、軍隊に招集される。
 近藤も加藤も、文学、建築、絵画など芸術の世界最先端に触れ、これからいよいよという時に軍にとられる。創作活動は停滞せざるをえない。そして敗戦。連合国による日本占領時代が始まる。
 この時期、すなわち昭和二十一年から二年にかけての二年間、いわゆる「第二芸術」論議が集中して行われた。歌壇には容赦ない批判が浴びせられる。これと期をほぼ同じくして、浦和近辺に住んでいた近藤芳美と加藤克巳が顔を合わせ、「新歌人集団」が発足する。
 この集団は戦後派の新風として、文学における「近代文学」とほぼ同じ役割を短歌において果たそうとしたものであり、当時の有力な新人のほとんどを網羅した。世代の連繋と旧弊の打破に目標を置き、第二芸術論によって痛めつけられた短歌の世界に新しい息吹きを生み出そうとした。
 「短歌研究」昭和二十二年六月号の全誌面が、新人特集として新歌人集団に提供された。そのときの集団の宣言の一部をひく。「私たちの一人は云う。短歌の宿命を儼然と瞶(みつ)め、民族の文化としての伝統を正しく理解し、深い愛情を持った上で、時代に生きる激しい文学精神と対決し新しい詩文学を産みだしたいと。また一人は云う。腐臭鼻を衝く歌壇、結社鋳型、宗匠マンネリズム等の手垢に汚れきった既成短歌から清新な肉体と知性をもつ文学に解放したいと」「この短い詩型を限りなく愛し乍ら、過去の短歌的世界に飽き足らぬ作家の真剣な意欲と切実な希願が永年の結社意識の鉄鎖意識を超えた共感となり”新歌人集団”の誕生となった」
 発表された作品ではともに霧をうたっており、二人の宿命を感じるが、近藤の歌は近藤短歌の典型のような歌だが、加藤の歌は本来の加藤の歌ではなく、「ある痛ましさ」(玉城徹)を感じる。
霧雨に吾らは濡れて帰り行く立場がああれば君いさぎよく   (近藤芳美)
焦燥の二三日つづきしがあきらめのけさ霧の中に桃の花を截(き)る (加藤克巳)
 歌壇への登場は加藤が先行したが、戦後短歌の旗手としての存在感は近藤芳美がまさった。
 近藤は、『早春歌』、『埃吹く街』と歌集を立て続けに出版する。
いつの間に夜の省線にはられたる軍のガリ版を青年が剥ぐ   『埃吹く街』
世をあげし思想の中にまもり来て今こそ戦争を憎む心よ
 この歌集の「雨の匂ひ」の中の歌々は、宮柊二の『小紺珠』に収められる「砂のしづまり」とともに、敗戦の直後に与えた影響は鮮烈だった。
 この短歌を裏付ける理論が昭和二十二年に発表された「新しき短歌の規定」である。「新しい歌とは何であろうか。それは今日有用の歌のことである。今日有用な歌とは何か。それは今日この現実に生きている人間自体を、そのままに打ち出しうる歌のことである」と書き出されるこの歌論は、ある歴史的使命を引き受けた覚悟を強く感じる。
「現実に生き、現実に対決しているわれわれ自体を、対決の姿そのまま、なまなまと打ち出し得る短歌こそ有用の詩であり、われわれの新しとする歌である」
「ザッハリッヒに投げ出された素材のもつ、素材自体の表情の美しさを新しい短歌の美しさとする」
「われわれはレアリズムによってわれわれの人間性を開放し思惟を累積させていく。正しいレアリズムのみがただ一つのてだてである」
 声高らかなレアリズム宣言と言っていいだろう。腐敗しかかった戦後短歌に指針と光明を与えた歌論として、その後の短歌実作者の記憶に長くとどめられることになる。しかしそのことによって近藤は逆に、十字架を背負う。「傍観者」と批判され、思想性の獲得のために造形性を失い、技法の固定と類型の退屈を指摘される。
 加藤克巳は『現代短歌史』の中で、石川啄木が自然主義短歌を標榜して発表した「食ふべき詩」の基本的考えが、その後、四十年たって近藤の「新しき短歌の規定」に引き継がれているという興味深い見方を示している。
 一方、加藤克巳は「新歌人集団」の結成に主導的に関わり、その世話役・事務役として献身的に関わりながら、僚友が戦後の世界に確たる地位を固めていくのを複雑な気持ちで眺めていたようだ。第二歌集出版は昭和二十八年まで待たなければならない。その消息について加藤は、「金がないのに人の世話ばっかりしていた。「新歌人集団」もほとんどぼくだ。要するにぼくは戦争が終わってから五年間、世話役をやっているうちに病気しちゃった。それがぼくの痛手だ。悔しくて悔しくてしかたがなかった」と後年、三枝昂之のインタビューで語っている。
 第二歌集『エスプリの花』の後書には「ぼくを現実主義、写実主義に引きとどめて容易に飛躍を許さなかった苦しい時代でもあった」とある。近藤を中心とした新歌人集団のリアリズム重視の姿勢は、戦後の風俗の目新しさも相まって、加藤に芸術主義の自由な羽ばたきを許さなかった。そんな加藤自身を象徴的にうたったと思われる歌を挙げる。
あぢさゐの花かげにこもる蝶ありて夕せまるころたゆたひやまず
          『エスプリの花』
 しかし加藤は戦後生活、すなわち所与現実のリアリズム表現の修得の中から、徐々に自己本来の世界を見いだすべく、独りの闘いを進める。『エスプリの花』の後半頃から、「鮮烈なる意志と美」「伝統と革新」ということを主張し始める。伝統と革新は加藤の生涯にわたる最大不変のテーマとなる。
 歌論集『意志と美』の中から抽出する。
「いつの時にも伝統が新しく生きつづける為には、伝統の内部につねに新しい創造の火が燃えつづけていなければならず、絶えず新しく変革が繰返されていなければならない。しかしてこの様な行為には、絶対の意志の力を必要とする」
「伝統とは変革の歴史である。伝統とは破壊作用によって繰返される変革の歴史である」
「短歌はすこし極端なぐらい、気負って革新へ立ちむかわないと、到底時代の文学芸術に頭をそろえることが出来ない」
 加藤はこリアリズムに屈服していた時代から徐々に飛翔を始める。第三歌集『宇宙塵』を経て、第四歌集『球体』にいたりその論の実作的結晶を達成する。佐藤信弘の言葉を借りれば「様式への主体的なかかわりを大前提とした、すなわち表現者としての意志による、自己の、人間の存在、詠嘆を含む全ての客体化を、自分そして他者に了解させるための階梯をのぼった」のである。
叫ばんかかの抽象のかの雲の楡のまうえのたまらなき朝     「球体」
不気味な夜の みえない空の断絶音 アメリカザリガニいま橋の上いそぐ
 近藤と加藤は、短歌革新に向かって命がけの志、意志を滾らせていたことでは共通である。対象現実の捉え方、うたい方、方法の革新への態度、属する集団の系統等々によって歌壇におけるその後の立場はずいぶん違うものになった。短歌史からの取り上げられ方も、正当ではないと思われる差が歴然としてある。しかし、ふたりが私達に遺したことは、それほどは違わないように思われる。
 短歌は意志をもって取り組む文学芸術であり、状況の中で作られる詩である。けっして現実と遊離するお遊びやお習いごとではない。この点において二人の間に違いはない。現実を直視する態度は変わらない。そのまま直写するか、さらに創造現実として抽象するかの違いがあるにすぎないのではないか。
 篠弘は『現代短歌史』の中の「第二芸術論議の論点」の書き出しで、こう書いている。「第二芸術論議が、戦後の短歌に問いかけた意味は大きい。第二芸術論議があらわれたことによって、戦後のいちじるしき虚脱状態から立ち直り、復興ないしは継続のきっかけとなったばかりではない。戦後短歌と言いうるものの繁栄とある結実がもたらされてくる。傷ついた短歌にとって、これほど最適の強壮剤はなかった」「『微視的観念の小世界』に入り込みがちな今日の状況において、第二芸術論議が飛び出してこないほうがおかしい」
 戦後短歌から前衛短歌の時代を経て、ライトバースやニューウェーブなどから現在に至る短歌の流れを概観すると、篠の言うように再びの第二芸術論議が勃興してこないのはたしかにおかしい。カラオケ短歌、ニュアンス短歌、ケイタイ短歌、つぶやき短歌等々、批評から距離を置いた”微視的観念の小世界”が量産されている。これは短歌の世界が文学として生き生きとしている状況とは言えないだろう。近藤、加藤らが、短歌における文学性復興にかけた火花散るような意志の鮮烈さを私達はもう一度、思い返すべき時である。
 最後に、二人の晩年の歌をひく。
絶対の「無」を救済に思うとし一切の人間の限界に立つ   (近藤芳美)
杳き日にもとめもとめてもとめえざりしもの今なお求め求めつづける
(加藤克巳)

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