君に読まれるその日のために  

                             斉藤光悦
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 電車が明るいホームを出ると、目の前の窓が鏡になった。

 悦子は自分の顔を見たり、恥ずかしくて目をそむけたりする。右隣りの高校生、自分の横にぱっとしないおばさんが立っていると思うんだろうな。左隣りはお若いカップル。恋人どうしかな。話に夢中で窓なんか見たりしないか。悦子はときどき自分を見る。自分を見ているのを他人に気づかれるのは気恥ずかしいから、上下や左右、斜めにちょっと視線をそらす。

「ほら、見てみなよ。この詩、けっこういけてるよ」若い男が言った。

「『よるの窓』。う~ん。ちょっと、退いちゃうタイトル」と女が返す。

「中身はそうでもない。いい線いってると思うよ」

「きみきみ、詩なんか分かるの? 本を読んでるのも見たことないんだけど」

 ふたりは笑いながら次の駅で降りた。

 どんな詩だろう。悦子はふたりの頭がじゃまになって見えなかった中吊りポスターの詩を見上げた。

車窓が窓になって

スーツ姿の僕が映っている

肩からは重そうなカバン

疲れたようなそうでもないような

やがて 鏡の僕が僕になり

それを見ていた僕がだれなのか

わからなくなってくる

ぬけ殻のように軽くなった僕は

電車が地上に出ると

ふわりと空に飛びだす

街の灯がきらめいている

その中を電車が走っていく

 いい詩だ。わたしがいつも電車の中で感じていること。そして、なんとなくなつかしい。難しい言葉がひとつもなくて、でも心をぎゅっとつかむ何かがある。

 悦子がポスターから目を離そうとすると一点に目が止まった。隅に小さくあった四文字。「佐々木修二」。

 まさか、そんなこと。

 さいたま市在住、四十九歳。

 彼はわたしと同い年。あの修二君なのだろうか。

 悦子はマンションに帰って夕食を済ませるとインターネットで調べた。鉄道会社が、電車の中で読んだときに心なごむ短い詩を募集していた。それをポスターにして車内吊りする。修二の詩はそのうちのひとつだった。

 「佐々木修二」も検索してみた。結果がリスト表示され、その最上列に「修二の詩歌館」があった。

※ ※ ※

 大学時代、悦子と修二は、加納賢治という学生を通じて知り合った。賢治は悦子のボーイフレンドだった。

 十九歳まであとふた月という初夏、悦子はお茶の水でニコライ堂をスケッチしていた。近くにある明治大学の一年生。秋田から上京してまもなかった。新宿や渋谷で遊ぶより、杉並校舎での授業を終えたあと、お茶の水に来て、水彩画サークルの仲間とお茶の水校舎の近くをまわってスケッチするのが楽しみだった。この近辺は絵になる景色がいたるところにある。画材を専門に売る店がたくさんあることも魅力だった。

 悦子はニコライ堂を描きながら、現実には目前にないモティーフも描きこみ、水彩を塗っていた。画面の中央に聖橋、右にニコライ堂、左に湯島聖堂の孔子廟を配置した構図。ビザンチン様式のニコライ堂と鐘楼のドーム型屋根は緑青に塗り、その上に直立する十字架が紺青の空をつき刺している。聖橋のアーチの中央部分には人の小さな上半身がふたつ。橋の上から放り投げられたレモンが一個、神田川に落下していく途中で止まっている。

 悦子は後ろに人が立ったのに気づいた。スケッチ中に背後からのぞかれるのはよくあることだから、気にせず作業に没頭した。レモンを彩色していた。

「さだまさしの『檸檬』かな」

と声がかかった。ふりむくと、背の高い長髪の少年が立っていた。ジーパンに紺色のラガーシャツ、デイパックを肩からさげている。セルロイドの眼鏡をした顔には幼さが残り、悦子は自分より年下の高校生かと思った。

「あの曲がモティーフですよね」

「わかりますか」

「もちろん。おれ、さださん、好きだから」

「わたしも。あの歌にでてきたもの、ぜんぶこの絵の中に表現したくて」

「おれなんか、あの歌聞いて、お茶の水っていう学生街にあこがれて、矢も楯もたまらず東京に出てきたようなもんだから」

「そのシャツの色、もしかして…」

 少年のような男は、紫色と白の縞模様のラガーシャツを着ていた。

「そう、明治の一年生。日文。きみは?」

「わたしも一年生。英文よ」

 悦子は自分の絵の世界にいきなり入り込んでこられてすこし警戒したが、同じ大学の同じ学部の学生であり、絵と歌のつながりを見つけてもらったうれしさですぐに心を開いた。

「御茶ノ水駅のホームとか、スクランブル交差点、黄色やオレンジの電車は描き込めないかな。そんな絵が見たいけど」

「もう無理、モティーフが入りすぎ。いまだって、いろいろ入れ込んじゃってうるさいかなって思ってるくらい」

「お茶の水橋に立って、聖橋と駅のホームと電車を眺めているのが好きなんだ。いまおれは東京ど真ん中の学生街で学生してるんだぞって、夢みごこちになる」

 悦子のサークル仲間がそろそろ引き揚げようと言った。

「あしたもここに来る?」彼が言った。

「ええ。まだ描き終わってないから」

「雨、降らないといいな」

「あなたも来るつもり?」

「ひまなんだ。きょうもあしたも」

 彼は頭をかきながら、言葉の軽さとはうらはらに、真剣に悦子を見つめていた。

 次の日、彼はカメラと三脚を持ってきて、悦子の後ろに陣取った。悦子が描き始めると、シャッター音がうるさかった。ちょっと静かに…と振り返ると、もう終わったから、とカメラと三脚をバッグにしまい出した。

「あとどれくらいここにいる?」

「五時くらいまでかな」

「それまでに戻ってくる。ぜったい待ってて」

 彼はそう言って駅の方に走っていき、二時間後に走って戻ってきた。

「はい、これ」と手渡されたのは一枚の写真だった。写真部の友達に現像してもらったという。普通よりひとまわり大きめのサイズだ。ニコライ堂とそれを描いている悦子と画布の中の風景画が写っている。悦子の筆はレモンのところに止まっていた。

「すてきな写真。構図がいいわ。ありがとう」

「うれしいな、ほめてもらえて。で…」

「で…、なに?」

「裏も見てほしいんだけど」

 悦子は写真を裏返した。

加納賢治

明治大学文学部1年 名古屋出身、19歳

杉並区方南1ー○ー○ 泰山荘

電話03ー○○○ー○○○○

★名前おしえて! 電話番号も★

★名前おしえて! 電話番号も★ の部分だけ青い字だった。見終えると、彼はメモ帳とボールペンを差し出していた。

 悦子と賢治はこうしてつきあい始めた。

 そしてしばらく後、「おれの友だち」と紹介されたのが修二だった。

※ ※ ※

 修二のホームページ「詩歌館」には詩歌集とブログ日記があった。詩歌集の中の『群青の宙』という歌集は書籍としても刊行されたことが記されている。彼が三十歳の時の刊行だというその歌集を読み通すと、名古屋の友、加納賢治が三十を目前に死んだ、という詞書きが添えられた歌の一連があった。

 君の中に生きていた俺も死んだのだ 晩春の名古屋港の夕凪

 賢ちゃんが死んだ? 

 私と別れてから五年ほどしか経っていなかった頃に。しかも、三十歳にもならないうちに。

 詞書きがついているのだから、フィクションではないはずだ。

 悦子はそれを確かめるためにブログにあたってみた。日記の中に賢治に関する書き込みがあるかもしれない。しかしブログが始まったのは五年前で、二十年近く前の出来事にふれているところはなかった。

 日記を読み進めるうち、修二の現在の生活ぶりを事細かく書いている部分が見つかった。妻と娘ふたりと、さいたま市の北浦和に住んでいる。詩や短歌を創るときのお気に入りの場所が北浦和公園の噴水広場だという。日曜の午後、雨が降っていなければたいていそこにいると書いてあった。

 悦子は修二に会いたくて、そして、かつての恋人、しかも死んでしまっているだろうその人のことを聞きたくて、次の日曜日、北浦和に向かった。

 噴水池の巨大なサクソフォンのオブジェが、春の遅い午後の日をにぶく反射していた。噴水がハンガリー舞曲に合わせて、吹き上げる水の形を刻一刻と変える。悦子は長方形の池をかこむ広場のベンチに座った。

 しばらく待っていると、池の向こう側に男が歩いてきた。その歩き方を見て悦子はなつかしさでいっぱいになり、修二君、と思わず声に出していた。デジタルカメラを最大にズームアップして、ディスプレイに男の顔を拡大した。顔はふっくらし、髪はややさびしくなっていたが、やっぱり修二だった。

 悦子は広場を半分まわって修二の後ろに立った。ベンチの隣りに座ろうか、ここから声をかけようか。どうしよう。もう一周、さらに一周して、またベンチの後ろに立った。どんな言葉をかけようか。おひさしぶり。それだけでいいか。それとも、悦子です。おぼえていますか。決めかねてもう一周してこようかと思ったところで、修二が振り返った。悦子はその探るような視線を逸らさずに受け止めた。彼の表情が驚きに変わって、やがてほころんだ。

「びっくりした?」悦子もほほえんだ。

「うん。おどろいたよ」

「わたしの名前は?」

「思い出せない」

「ほんとに?」

「ごめん、悦ちゃん。忘れるわけないだろう。名前はすぐに浮かんださ」

「でも、なにか思い出しているようだった」

「これは夢? って本気で疑ってた。大学時代に戻ってきたんだよ。一瞬のうちに」

※ ※ ※

 賢治と悦子は大学時代、ずっと恋人どうしだった。親からの仕送りを受けながら、半同棲状態の夫婦ごっこをしているようでもあった。卒業がふたりの道を別々にした。

 悦子は生まれ故郷の秋田に帰った。母が病気で倒れたのだった。母ひとり子ひとりの親子だったから、東京で決まっていた中小出版社への就職もあきらめざるを得なかった。賢治は愛知の地方銀行に就職が決まった。離れていても電話はできるし、月に一度は会えるだろうと高をくくっていたが、実際には秋田と名古屋は遠すぎた。新幹線を乗り継ぎ在来線も使って片道九時間、料金も三万円近い。社会人になって初めて賢治が秋田にやってきたのは六月だった。次は九月、その次が翌年の正月。そのあとは半年後だった。最初は会えないのがさびしかったが、だんだんに会えないことがあたりまえになり空白感が薄らいで、やがて会いに行くと言われれば、無理しなくていいよと答えるようになり、かかってくる電話にわずらわしさを感じるようになった。

 その頃、悦子に恋心を募らせて、がむしゃらに結婚を求めてくる男がいた。実家の近所に住む幼なじみで、クラスは違えど小中高とずっと一緒の学校だった。幼なじみは、悦子が東京の大学に行ってしまって、もう秋田には帰ってこないかもしれないとあきらめかけていたところへ彼女が戻ってきたから、二度と離すまいと必死だった。

 悦子の心はまだ賢治を向いていたが、彼も一人っ子だから秋田に住んでくれることはきっとない。母親を早く安心させてもやりたい。幼なじみも気楽でいい。恋情らしきものははっきりいってないけれど、結婚と恋愛は別でいい。悦子を求める真剣さはじゅうぶんすぎるほど伝わってきた。悦子はプロポーズを受け入れた。秋田に戻ってから三年たっていた。

 悦子は賢治に電話で別れを告げた。賢治は秋田まで来て、婚約を破棄し自分と結婚してほしいと言った。だが、すでに結納を済ませ、結婚式の日取りも決まっていた。それをひっくり返すほどの愛情の強さは、もう賢治には残っていなかった。

「悦ちゃんのこと、忘れないよ。だけど、これからなにを励みにしていけばいいんだろう」

 そう最後の言葉を残して、賢治は名古屋に帰っていった。悦子はいまでも、そのときの賢治のへたくそな作り笑いを忘れていない。

※ ※ ※

「でも、秋田にいたきみがどうして東京に? 結婚して、子供もいるって聞いた。だいぶ大きいんだろう」

「もういい大人よ。男ふたりだけど、上は社会人一年目、下は大学三年」

「で、東京には…」

「主人が転勤になったの、東京本社に」

「じゃあ、きみは専業主婦か」

「秋田ではそうだったけど、いまは働いているわ。それが、お茶の水でなの。出版プロダクションで、コンピュータを使ってイラストを描いたり写真を加工したり」

「絵を描くのが好きだったもんな。好きな街で好きな仕事か。うらやましい」

「会社からの帰りにあなたの詩に出会ったの。すぐに家に帰って、あなたのこと、インターネットでいろいろ調べたわ」

 悦子は、修二の歌集のなかの賢治の死を詠った短歌を書き付けたメモを取り出して、修二に見せた。

「教えて、賢ちゃんのこと。この歌の通りなの? 賢ちゃんはもう死んでいるの?」

「この歌、よく見つけたね。全部読んでくれたのか、あの歌集」

「ええ、全部読んだわ。ブログも読ませてもらいました。修二くんのこと、なんでも知っている気分よ」

「賢治が死んだときのことを聞きたいのかい。君と別れてからのことも全部かい?」

「知っていることは全部教えて」

「全部といっても、おれの記憶も怪しくなってきているけど…」修二は、噴水に一度目をやったあと、思い出をたどるように目を閉じ、しばらくして話し始めた。

「早すぎたよ。あいつが死んだのは…」

 悦子と別れてから数年後、賢治は二十八歳の冬に結婚した。職場の上司の紹介だという。結婚式で久しぶりに会った賢治は、これからの生活への希望で輝いているように見えた。修二には交際している人もいなかったから、その輝かしさには妬ましささえ感じた。「さあ、次はおまえの番だぞ」と賢治に肩をたたかれ新婦にもがんばってくださいと言われて、修二は名古屋を後にした。

 その半年後、修二の職場に悲痛な声の電話が入った。「賢治が死にました」母親からだった。抑揚のない声で通夜と葬儀の日取りを告げて、詳しいことはそのときにと言って電話は切れた。お通夜の席で、賢治の死に至る子細を話してくれたのは、結婚後わずか半年で夫を亡くした奥さんだった。

 朝早く出かけ深夜に帰ってくる銀行の電算関係の仕事が三か月くらい続いていた。休日も出勤することが多く、夫婦一緒に過ごす時間はほとんどなかった。ある日、いつものように夜遅く帰宅した賢治は、入浴の前にトイレに入ると、壁やドアをなぐりけって大きな音をたて、うっーという苦しみの声をしぼりだした。奥さんがドアを開けようにも、ドアは内開きで、賢治の体がふさいで開かない。奥さんがなにもできずにいるうち、賢治は中で静かになった。大声で呼んでも反応しない。救急隊が到着したときにはぐったりしていて、応急措置に反応することもなかった。過労による心筋梗塞だった。

「もうすぐ命日なんだ。平成三年六月二十六日。あいつ、平成もすこしは生きたんだ」

「お墓参りに行くの?」

「行くよ。もう年中行事だ。平日なら会社を休む。でも今年は日曜日だ。きみも一緒に行かないか」

「急すぎるわ。主人に事情を説明して納得してもらうか、それとも嘘をつくか。いろいろと考えなくちゃならないもの」

「朝早く東京を発てば、夕方には戻れるよ。『のぞみ』に乗れば片道一時間半。十時には墓地に着く。そのあと、あいつの家に行って線香あげさせてもらったとしても三時には名古屋を発てる」

「夕方に戻れるなら、正直に話すこともないわね。友達と銀座にでも行ってくるって言っておけばいいか」

「あいつの遺影、いい笑顔だったぞ。たぶん、おれたち三人で那須に行ったときの写真だ」

 公園を出ると、どうしても連れていきたいところがあると修二が言うので、ついていった。ログハウス風の一軒家の喫茶店だった。バロック音楽が流れている。修二は席に着くと言った。

「お茶の水の駅前にウイーンってお城みたいな名曲喫茶があっただろう。店の作りは比べようもないけど、この店、音は負けてないよ。マスターの音とコーヒー豆へのこだわりは半端じゃないんだ」

 注文を取りにきたマスターが「そんなたいしたもんじゃありません。老い先短い男の心慰みです」と笑った。修二はオリジナルブレンドを二人分頼むと、「バッハのゴルドベルグ協奏曲。小池レコードのやつで」とリクエストした。

 小池レコードとゴルドベルグ。その二つの名は悦子も覚えていた。小池レコードは名古屋の有名なレコード専門店で、そこで扱っているレコードは信じられないほどの音を出す。とくにチェンバロのアリアは、自分のすぐそばで演奏されているように鼓膜にひびく。その名盤は、修二が賢治の親に形見分けしてもらった三枚のレコードのうちの一枚だという。その三枚はすべてこの店に提供した。マスターの音へのこだわりに信頼を置いたからだ。

 アリアが始まった。

 あの時の音だ。悦子の体がふるえた。目に見えない奏者が部屋の中央にいる。

「あいつがこの店の中のどこかで、この音を聴いている気がするんだ。いるんだったら、こっちに来いよって、いつも思う」

「わたしも彼とこの曲をよく聴いたわ」

 悦子は目を閉じ、賢治とレコードを聴いた彼のアパートの部屋を思い出した。立て膝を両腕でくるみ二人並んで壁にもたれ、チェンバロの響きに自分の体や心を一緒にふるわせていた時間。なつかしい学生時代の四年間の中の、いちばん印象的な瞬間。あの頃は、その濃密な時間がずっと続くと信じていた。卒業しても、十年、二十年たって、さらに年老いてもずっと続くと。

「おれたち結婚すると思うか」

「したい? したくない?」

「おれはしたい。だけど、そんなにうまくはいかない気もする」

「うまくいくわよ」

「この時間がずっと続いた先にいつのまにか結婚があった。そういうのがいいな」

「この音を聴いてると、バッハの時代ともつながっている気になる。三百年も前なのに。だから、十年、二十年…そんなのあっという間。ちょっと先のことよ」

 まぶたを開くと修二がいて、じっと悦子を見ていた。

「お目覚めですか」

「うん。ちょっと、夢をみてた」

「幸せそうな顔してたよ。いまとあっち、どっちが夢だかわからないだろう?」

「そう言われるとそうね。あっちの自分が、あなたとわたしがいるこのいまを夢みているのかもしれない」

 ゴルドベルグ協奏曲は最初と同じアリアをふたたび繰り返して終わった。

 店を出ると、月が明るかった。その月光にくっきりと照らされた路地と鉢植えと、たまたま歩いていた猫が、悦子をいつかもどこかでこんな所にいたような気分にさせた。いつかもどこかで。いつかもどこかで…。悦子の最近のおきまりの感慨だった。

 東京駅での待ち合わせ時間と場所を決め、ふたりは北浦和駅の改札で別れた。

※ ※ ※

 九時前に着いた名古屋駅で在来線に乗り継ぎ、鶴舞という駅で地下鉄に乗り換え十分ほどで八事の駅に着いた。毎年来ているという修二は、迷うことなく賢治の墓地まで連れていってくれた。途中で線香と花を買った。墓地は広大だった。十分以上歩いて、丘の中腹にある賢治の墓に着いた。視界いっぱいに数限りない墓標を見下ろせた。

 ここに眠っているのだ。なのに悦子は実感がわかなかった。この墓石とその下にあるはずの骨と、十八から二十二歳のあいだに五感で実際に感じた賢治の体をつなげることはできなかった。ただ、三十年という時間があまりに速やかで、夢のようにあっけないことを感じていた。

「ここに来たの、まちがいだったかしら」

「どうして、そう思うんだい」

「泣いてあげたかったのに、泣けないの。だから…」

「号泣とか嗚咽とか、そういうふうに打ちのめされたかったのかい」

「そこまでは…」悦子は修二をみて笑った。「でもね…。これでいいの? ちょっと薄情じゃない、って思っちゃう」

「むりやり悲しむことはないさ。時間がたちすぎたんだよ」

「賢ちゃんの家には行ける?」

「そう言ってくれるのを待ってたよ」

 賢治の遺影は満面の笑みだった。修二が言っていたように、那須で遊んだ大学三年の時の写真だろう。この写真の両側には悦子と修二の姿があるはずだ。悦子は修二の後に続いて線香をあげた。賢治を見上げると、こみ上げてくるものがあった。

「賢ちゃん、ごめんね。なにも知らなくて」悦子は鉦をならし合掌した。「いつかまた、どこかで会えると思ってたのに…」

 賢治の母親が二階の彼の部屋に通してくれた。しばらく賢治と話をしていって下さいと言って、部屋を出ていった。

 昔、東京のアパートに置いてあった本格的なオーディオセットが部屋の一角を占めていた。LP盤のレコードが壁一面に設えられた棚にびっしり収められている。中に一枚、重厚な装丁のケースに入ったものがあった。ホロヴィッツのベートーベン三大ピアノソナタ集だった。修二は階下に降りていって、オーディオセットを動かす了解をとってきた。

「『悲愴』っていう曲、聴かせてもらったことがある。東京にもってきてたわ、このレコード。ケースに見覚えがあるの。たぶんこれも小池レコードね」

 悦子の言葉を聞きながら、修二はオーディオセットの電源コードをコンセントにつないだ。レコードを保護フィルムから取り出し、両手の掌で左右から押さえてレコードをしっかり支え、プレーヤーの回転テーブルに置いた。アームを持ち上げるとテーブルが回転した。修二は真剣な面持ちで、緊張の一瞬だと言いながら、針をひと吹きしてレコードにそっと載せた。

 ザーっという音がかすかに続いて、ピアノが鳴り始めた。

「ここで暮らしていたのね。東京のアパートにいた四年間よりずっとずっと長く。ここで大きくなって、東京へ出て、私たちと出会って、また戻ってきて、そして死んじゃった」

「そこのドアが開いて、ひさしぶり、待たせたな、って入ってきそうだ」

「そうね。賢ちゃんだけ学生のまま。おじさんとおばさんの私たちを見てびっくりしそう。なんだよ、ふけこんじゃって、ってね」

「この部屋の主がいなくなって二十年。ご両親もあとそう長いわけじゃない。そのときまでは、このまま時が止まってる」

「そう。時が止まって、ぽかんとどこかに浮いていて…」

「おれ、その感じよくわかる。自分の昔のアパートの部屋だって、いまでもどこかに浮かんでて、いつか出会えるような気がする」

「わたしもよ。賢ちゃんのアパートも私の部屋も」

「部屋があるだけじゃないんだ。そこに昔の自分もいる」

「よくわかるわ。あなたの感性、わたしと似てる」

「そうかな。考えたこともなかった」

「地下鉄ポスターの詩。あの詩を読んだとき、とてもなつかしい気がした。あなたの詩だって分かったときは、やっぱり…って」

 窓際にはベッドが寄せられ、汚れカバーがかけられていた。悦子はその窓の上の壁に写真が四、五枚入った額を見つけた。近寄って見上げると、そのうちの一枚は賢治が撮ったニコライ堂とそれをスケッチする悦子の写真だった。

「この写真…」悦子は指さして言った。「これと同じ写真の裏に、わたしへのラブレターが書いてあったの」

「ラブレター?」

「そう。加納賢治、明治大学文学部一年、名古屋出身。電話番号教えて、って」

「単刀直入なやつだなあ」

「それが始まり。私がもらった写真はどこかにいっちゃった。捨てた覚えはないんだけど」

「これ、もらえば。頼んであげようか」

「おねがい。手元にほしいわ」

 母親が階下から上がってきたときに修二がその件を頼むと、どうぞ持っていってくださいと額を外して写真を取り出し、「これはどこにある何という建物ですか」と写真のニコライ堂を指さして聞いた。

 悦子は、ニコライ堂が明治大学のあるお茶の水のシンボル的な建築物であることを教えた。そして、この写真に写っているスケッチする女が賢治の大学時代の恋人であり、それが自分であることを告げた。母親は、わかっていましたよと言った。アルバムを見ていましたから。ああ、あの人が来てくれた。賢治、よかったね、って、いまさっきも父さんと賢治と三人で話していたんです。

 悦子は泣いた。賢治に見守られている思うと、涙はあとからあとからこぼれた。

※ ※ ※

 名古屋から戻ってひと月たった頃、悦子は噴水広場で修二と待ち合わせた。渡したいものがあると修二がメールをくれたのだ。ベンチで待っていると走る足音が遠くから聞こえてきて、ごめんごめんと言いながら修二がやってきた。

「走らなくてもいいのに。いい年して」

「ジョギングを兼ねているんだよ。きみこそいい年なんだから、運動しなきゃな」

「してるわよ、こうみえても。きょうだって、近くのスポーツクラブで泳いできたのよ」

「出がけに電話がかかってきてさ。マンションの管理組合から、こんどの大会で役員に立候補してほしいって、しつこいんだ」

「マンション暮らしは自由でいいって聞いていたけど、そうでもないのね」

「一度でも役員やってしまうと、なかなか抜けられないらしいし」

「なんか所帯じみてるね、わたしたち」

「生活にまみれて、まみれきってそれでいいのさ。五十代前後って。夢を追いかけるような年じゃない」

「そうね。ちょっと余裕っていうか、あきらめが出てきたけどね」

「その余裕がへたなことを考えさせるんだよ。二十代、三十代のがむしゃらな頃は、自分の生活を高いところ見おろしているような見方ってしなかっただろう。四十代の後半になって、先々のことよく考えるようになった」

「そうね、わたしも。でも…そんな話をするために呼んだわけじゃないでしょ。渡したいものってなに?」

 修二はバッグから一枚のディスクを取り出した。「このDVDだ。きみにあげる」

「映画、それともなにかの記録?」

「いまから一緒に見よう。一緒に見たかったから、わざわざ来てもらった。きみ一人だけで見てもらうなら、郵送すれば済んだんだ」

 修二はバッグからiPadというコンピュータを取り出した。A4ノートほどの大きさで、キーボードがなくディスプレイだけのコンピュータだ。「このiPadの中に、そのディスクと同じ内容のデータが入っている」

 修二はタッチ型の液晶画面を指でなぞりはじめた。

「賢治の結婚式のビデオだ」

「どこにあったの? そのデータは」

「おふくろさんがビデオテープを送ってきてくれた。きみに見せてやってくれって。テープの内容をデジタルにダビングした」

 修二はテープに同封されていたという便箋を悦子に渡した。

「賢治は幸せだった。だから悔やんだりしないでと伝えてほしいと書いてある」

 映像は結婚式場の入口の両家の名字を書いた看板から始まった。次に席次表のアップ。バックグランド音楽は定番のパッヘルベルのカノンだ。

「平凡な趣向だろう? この先も退屈。がまんして見てくれ」

「結婚式なんてそんなものよ。白石さんっていうのか、賢ちゃんの奥さん」

「白石瑠璃子。いいとこのお嬢さんらしいよ」

「名前からして、深窓のご令嬢って感じ」

 カメラが会場に入る。部屋全体をパーンしたあと、まだ空席の新郎新婦の席をアップした。画面が入口の扉に切り替わる。

 結婚行進曲が鳴り響き、「新郎新婦の入場です」と司会の高らかな声が続いた。ドライアイスの白煙が床を這い、扉がゆっくり開く。グレーのタキシード姿の賢治と純白のドレスの新婦が晴れがましい表情で立っている。賢治の顔がひきつっている。

「賢ちゃん、緊張したんだね」

「すぐに表情や行動に出てしまうんだよ、あいつは。心の動き、隠せないんだよな」

「不器用な人だったから」

「一本気でね」

 新郎新婦がドライアイスの雲の上を歩き出した。

「あいつ、つまづくから見てなよ」

 ふたりは高砂に向かって進んだ。もうすぐ到着というところで、賢治がつんのめった。かかとの高い靴なので気をつけて歩くよう言われているはずなのに緊張で忘れてしまったのだろうか。なんとか体勢を立て直して転ばずに済むと、万雷の拍手だった。だれかが指笛を吹いた。深々とお辞儀して着席すると賢治は頭をかいた。

「なつかしいな、あの頭のかきかた。肩にふけがかかってなきゃいいけど」

 次のシーンはケーキ入刀だった。

「これって、わたしが一緒にやっていたかもしれないんだよね」

「そうさ。おれはこの会場にいるあいだずっと、賢治の隣りにいるのがなんで悦ちゃんじゃないんだって思ってたよ」

「賢ちゃんもこのとき、わたしのことが思い浮かんだりしたのかな」

「そんな瞬間もあったんじゃないかな」

「わたしもそうだった。結婚式で、どうしてわたしの隣りが賢ちゃんじゃないのって思った。だからといって主人と結婚したことを悔やんでいるのじゃなくて…」

「そこにいない人の、得も言われぬ存在感って、たしかにあるよ」

「わたしたち、賢ちゃんのこと、ずっと忘れないね」

「うれしいよ、きみがそう言ってくれて。おれは、君が賢治を捨てたんだと思っていたんだから。なんともできない事情があったのは聞いていたけど」

 キャンドルサービスが始まった。ちょうど修二のいるテーブルを回っている。

 悦子が修二のとなりの男を指さして、この人、だれだったかなと聞いた。

「大久保だよ。阿佐谷に住んでた。クイズ研究会のサークル長」

「そうだ、大久保君。一緒にボーリングしたよね」

「ボーリング? 覚えてないな、それは」

「大久保君、彼女を連れてきてた。小さくてかわいい人。力が弱くてさ、ほとんどガーター。だから、一本でも倒れると、みんなで喜びあって…」

「なんとなく思い出した。それにしても、カップル二組と、もてない男がひとりか。おれ、大学時代ずっと彼女できなかったもんな」

「わたしが、ときどき恋人の代わりしてあげたじゃない」

「ばか言わないでくれよ。きみは親友の彼女で、だから…」

「だから、なに?」

「言えないよ」

「正直に言うわね。わたし、あなたに引かれる気持ちがなかったわけじゃないの」

「いまごろ、そんなこと言うかなあ」

 悦子が重ねてきた掌を修二がもう一方の掌で上から押さえて、「でも、ちょっとうれしい。あのころ、こうなりたいって、すこしは望んでいたかもしれない」と言った。

 悦子はうなずくと、三つの掌に最後の掌をのせて「これくらい平気よ」と笑った。

「そうだな。恥ずかしがるような歳じゃないな」

 ビデオは友人の祝辞や余興の披露、花束贈呈を映して、最後は新郎新婦の謝辞だった。

「幸せになるって、こんなに立派に宣言したのになあ」

「この半年後とはね」

「さっき渡したディスク。ときどき見てやってくれよな」

「だんながいるのに、見られるかしら」

「たまにでいいんだから、一人の時に。別に賢治を思い出すためじゃなくてもいいんだ。賢治を見て、自分の学生時代を思い出せよ。あんな時代がほんとうにあったんだなって」

「年をとってくると、学生時代って、ふるさとのようになっていくよね」

「学生時代って言葉があるかぎり、忘れられないよ、あの四年間は」

「細かいことは忘れていくんだけど…そう、砂が指のあいだからこぼれていくみたいに忘れていくんだけど、忘れてなんかないよって思い続けていくのね」

「詩人だねえ」と笑って、修二はコンピュータをバッグにしまった。

※ ※ ※

 その日最後の噴水演奏が始まるまでのあいだ、悦子と修二は公園内にある美術館と棟続きのイタリアレストランで時間をつぶした。

「もし、あなたがあの『よるの窓』っていう詩を書かなかったら…もしわたしがあの詩を電車で見かけなかったら、わたしたちはいまこうして会っていないのね」

「そうだな。それにきみは…」

「賢ちゃんが死んだことも知らないままだった」

「おれも電車の中で誰かの詩を読んだんだ。それで募集していることを知って、家に帰ってその晩のうちに書きあげた」

「堰を切って流れでたのね」

「そうなんだろうな。なにかが無意識の中に広がってるんだよな。もう長くないよっていうあきらめかな。五十近くになって、昔のことを振り返ってばかりだ」

「自分の人生あと何年って考えることある?」

「考えるよ。このごろとくに。五十を越えたらもっと考えちゃうんだろうな」

「五十って数字、すごい力があるよね」

「きつい数字だよ。二十、三十、四十とは世界が違う」

「世界かどうかわからないけど、なにか圧倒的にちがうような気はするね」

「賢治はこんな年よりくさいことを思うこともなく逝っちゃったんだな。そして、いまもあの頃のまま。おれたちの心の中でずっと大学生」

「うらやましがっているみたい」

「すこしね。でも、じゃあ代わってくれって言われたら、困る。子どもたちに会えなかった人生なんて考えられない」

 修二はたばこを取り出して、火を付けた。

「あの頃もマルボロだったかしら」

「いいや、セブンスターだったよ。結婚してからだんだん軽くしてきて、いまじゃこのマルボロスーパーライトをたまにふかすだけ」

「いっぽんちょうだい。酔ってきたら吸いたくなった」

 修二が手を伸ばして火をつけた。

「うまいよな。たまに吸うたばこは」

「いまごろ賢ちゃん、煙たそうな顔をしてるよ。手のひらやメニューをうちわにしてさ」

「大のたばこ嫌いだったな」

「煙たそうにしても、ちゃんと席にいたよね。煙がひくとしゃべりはじめた」

「そう、ひとりで何分もしゃべってた」

「賢ちゃんだけじゃないよ、おしゃべりだったのは。あなたもわたしもよくしゃべってたわ」

「何を話してたんだろう」

「文学、哲学、芸術、社会、恋愛、結婚…エトセトラ エトセトラ。いくらでもあったわよ、話題は。責任のない問題に口だけ出していればいいんだから」

「よかったよな、学生時代。すこしだけでいいから、戻らせてほしいな」

「でも、遠くなっちゃったね、賢治と修二と悦子の学生時代は」

「たしかに遠すぎるな。降る雪や明治は遠くなりにけり、だっけ?。かすんでいくのをどうやって止めたらいいんだ、まったく」

「わたしね、この二十年間、よく賢ちゃんの夢をみたの。さっきは言わなかったけど、賢ちゃんとの結婚式の夢、何回みたかわからない。だんなの夢なんて一度もみたことないのによ」

「いま持っているものより、なくしたものの数を数える動物なんだって、人間は」

「そうかもね。誰の言葉? それ」

「おれが自分で考えた。といっても信じないだろうな」

「うん。信じない」

「だけど、おれも考えたんだよ」

※ ※ ※

 八時になり、噴水広場にチャイコフスキーの花のワルツが流れ始めた。噴水は音に合わせて、噴き出す水の高さと角度を変え、水中からのライティングも赤・白・黄・オレンジと変化し続けた。色と形の変幻自在な生き物を音楽が操っていて、その音楽はチャイコフスキーという百年以上も前のロシア人の心模様から生まれた。色と形の動きを繰り返す噴水のかたわらで、サクソフォンの巨大オブジェが微動もせず、金色のライティングに耀いている。このサックスはどんな音楽を奏でたいのだろう。動きやまない光景の中での静物の存在感は、いまそこにはいない人の持つ存在感に似ていると悦子は思った。

 最後の曲は「トランペット吹きの休日」という陽気な曲だった。

「運動会の徒競走でよく使われる曲だよね」悦子は言った。「かけっこ、いつもビリのほうだったから、運動会って大きらいだった。一週間くらい前から、ずっと雨降れって思ったり、当日になったら病気にならないかなあって思った」

「そうか、悦ちゃんは走るのが苦手だったのか。そういえば、小さい頃のこと聞いたことがなかった」

「うん。わたしもあなたの小さい頃の話しは聞いたことがない。賢ちゃんのこともあまり知らないわ」

「いっぱしの大人のつもりで出会って、子どもらしさを隠してつきあうっていう感じあったよね、学生時代って。小学校や中学校、高校なんかなくて、最初から大人だったような顔して、背伸びして、人や世の中とつきあってたわ」

 音楽が終わり、噴水のライティングも落とされた。見物していた人たちがベンチから立ち上がってそれぞれ帰り始めた。

「来年、また名古屋に行く?」修二が言った。

「わたしは、もういい」

「そうか。行かなくても、思い出してやればいいよな」

「お盆で秋田に帰ったら…」悦子はニコライ堂と聖橋と湯島聖堂のスケッチを思い描いた。「あの水彩画を探して、東京に持ってこようかな。職場の壁に飾らせてもらえるといいな」

「おれたち、これからは思い出を大事にしていかなきゃ。感傷にどっぷりつかって生きていこうよ」

「感傷っていえば、修二くん。あの歌集の一番初めの歌。あの歌の『君』って誰なの?」

 俺の歌はいつか君の目にふれることを夢みえる感傷なのさ

「やっぱり聞かれたか。悦ちゃんなら、必ず聞いてくると思ってたよ」 修二はバッグから本を取り出し、悦子に手渡した。「別れ際に渡そうと思っていたんだけど、あの歌のことを聞かれたから、いま渡すよ」

 悦子は本を開き、冒頭の歌を見ながら言った。

「誰なの? あんなにあなたを恋い焦がれさせた人は」

「この歌は、賢治とおれの共作なんだ」

「共作、って… 賢ちゃんも短歌やってたの?」

「俺の歌の見よう見まねさ。たった一首だけ、なんとなく形になった歌があった。それがこの歌の原型になった。それに俺が手を加えて、ふたりで相談しながら一首に仕上げたんだ」

「じゃあ、『君の目』って、もしかして…」

「そう。悦ちゃん、きみだよ」

「ほんとに?」

「ほんとだ。賢治は、やっと夢を果たしたんだ」

「見たわよ、賢ちゃん。おそくなってごめんね。そう、声を届けられたらいいのに」

「賢治は分かってるよ。君が墓参りをしにきてくれて、おまけに家まで訪ねてきてくれたんだから」

 悦子はうなずいた。名古屋の墓地や賢治の家の仏壇、彼の部屋の様子が脳裏に浮かんだ。

「でもさ、どうして、共作の歌を冒頭に持って行ったりしたの? 共作はあの歌だけなんでしょ。ほかにも冒頭にもっていけそうないい歌がいっぱいあるじゃない」

「共作って、共感がなけりゃできないんだ。おれにとっても、いつか自分の感傷の歌を読んでもらいたい『君』がいたのさ」

※ ※ ※

 公園の門を出ると、北浦和駅のロータリーと駅舎が見えた。

「ここでいいわ。子どもたちが待ってるんでしょ。早く帰ってあげて」悦子は立ち止まって修二の顔を見た。

「改札まで送るよ。そんなに遠くないから」

「ここでいいわ。こんど会うときは、奥さんや子どもたちの写真を見せてね」

「じゃあ、帰るよ。また、会おう」

 修二はけやき並木の街道を駅と反対の方へ歩き出し、「ばいばい」と手を振った。

「振り向かなくていいから、聞いて」悦子が呼び止めた。

「ほんとうに学生時代ってあった? 加納賢治っていう人、ほんとうにいた?」

「………」

「いきなり、ごめん」

「いや。おれもそんなことを考えてた。このまま家へ帰ったら、この道を歩いていけば学生時代も、いま悦ちゃんと会っていたことも、すべてなくなってしまうんじゃないかって」

「あなたも思ったのね。ちょっと安心した」

「おれもさ…」

「でも、あの頃がなかったなんて、そんなこと、あるわけないじゃない。そうよね?」

「そんなこと、賢治が許さないさ」

「わたしたち、もっともっと生きていこうね。賢ちゃんの分もね」

「わかってる。おれたちの中の賢治を長生きさせてやろう」

「そうね。じゃあ、ばいばい」

 修二を見送り、悦子は駅に着いた。エスカレーターに乗ろうとしてやめて、階段を一歩一歩きざむようにのぼった。駅の中は人影がまばらだった。もう、ここには来ないだろう。たぶん修二と会うこともない。思い出はわたしひとりで振り返ろう。悦子はバッグに入れた歌集の重さを腕に感じながら思った。近づいてくる自動改札が、なにか違う世界への入り口に見えた。

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