評 論

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「現代短歌名歌鑑賞」 個性2000年12月号

魂(たましひ)よいづくへ行くや見のこししうら若き日の夢に別れて

前田 夕暮

 明治四十三年刊『収穫』の劈頭を飾る一首。
 夕暮は、明治十六年、神奈川県生まれ。若山牧水と相前後して尾上柴舟に師事、世に「牧水・夕暮」と並称される。同四十四年「詩歌」を創刊。自然主義歌人として出発するが、昭和初年代には自由律短歌運動の先頭に立つなど、振幅の大きい作歌生活をおくった。
 『収穫』は、夕暮の第一歌集。その自序には、「『歌はわが若き日の収穫なり』といふことに思ひ及び、そのまま収穫を標題とすることにした」とある。また、「自分は技巧が拙い、修飾することを知らぬ。藝がない。であるから、思ったこと感じたこと以上に歌ふことを知らぬ。唯正直に歌へたらよいと思ってゐる。<中略>自分は何時も通例人であらんことを願ふ。唯一箇の人間であったらそれでよいと思ふ。通例人の思ったこと、感じたことを修飾せず、誇張せず、正直に歌ひたい」と率直に記している。
 この歌集は、作者二十代半ばの作品を集めており、「疾走する感傷」とでもいった一巻になっている。かなしみ、さびしさ、こいしい、あはれ、われひとり、なつかし、たそがれ等々、次から次に悲傷を表す言葉が出てくる。熟達の歌人からは芸がないと批判されるのを承知で、あえて通例人の思い感じたことを修飾・誇張せずに正直に歌った結果なのだ。
 僕は、この九十年も前に出た歌集に、唯一無二といっていいほどの親近感を感じる。なぜならば、僕も八年前、感傷の奔流にまかせた拙い歌集を世に問うたからである。『群青の宙』という、二十代半ばの作品を集めたその歌集は、こんな歌で始まる。「俺の歌はいつか君の目に触れることを夢み顫(ふる)える感傷なのさ」。そして歌集の後書には、「(そのころの)僕の実生活は一人の女性とその女性との別れによる感傷に明け暮れた。情に流れた作品が多いのは、そのためである。しかし、それでよい、と思った。そのような歌い方でしか慰藉できない、感傷の情熱というべき高ぶりがあった」と書いたのである。
 そういうわけで人並みならぬ愛着を持つ歌集なのだが、とりわけこの冒頭歌は、ひどく心に沁みる。魂、いづこ、見残す、うら若い、夢、別れ。これらのものがなしく切ない言葉どもが、流れるような韻律に乗って、僕の心を顫えさせる。しかし、一見ネガティブな言葉の集まりでありながら、明治という精神高揚の時代を背景としているためか、ただ弱々しく短調に響くのではなく、やがて光は兆すという予感に満ち、不思議と閉塞感を感じさせないのだ。今は悩み悲嘆せよ、されどいずれ……。僕にはそういう解放感が感じられるのである。


 
個性98年2月号

記憶装置としての短歌


 文学誌「新潮」一月号で、「現代日本の歌」という大特集が編まれた。その中に大岡信、馬場あき子、佐佐木幸綱による「定型という逆説」という座談会があった。大岡は冒頭で、アメリカの大砂漠地帯での体験を振り返りながら次のようなことを言っている。
「短歌は写実ではなく、記憶のための非常に便利な装置だという気がした。つまり、現代詩を書こうと考えているうちに、もうその風景は遙か向こうへ過ぎ去っているが、短歌は過ぎ去らない。五七五七七を、さっと作れる。面白い格好をした岩があれば、例えばなんとかの岩と自分で仮に名付けて、月の砂漠を行く王子様とお姫様が、この辺で降りたら面白かろうとか、一首できちゃう、次々に。一種の、スナップショット的な、言葉による記憶装置という意味で、短歌は非常に便利でした」
「短歌は、昔は抒情性、特にもののあわれを主体にするとみんな思っていましたね。ところが、僕のやり方で行くと、もののあわれはちっとも入ってこない。もっとずるいやつなら、スナップショットを撮って、最後にもののあわれの言葉をちょっと入れていく。入れると見事な短歌になる。だけど、僕はそれほど悪辣じゃない」
 面白い発言なので、長々と引用した。これは短歌界への痛烈な風刺であろうか、それとも応援歌だろうか。
 すくなくとも、大岡自身は門外漢である自分の作歌を文学とは考えていないようだ。かといって、歌人による短歌も文学ではないとは決して言っていない。だが、こういうことは言っている。「現代詩でも『詩ならざるもの』と『詩』と、という話題がありましたが、その『詩ならざるもの』のほうに大変豊かな宝があったんです。その『詩ならざるもの』の世界によって、豊かに支えられているのが短歌だと思います」と。 「記憶装置としての短歌」。「詩」を支える豊かな「詩ならざるもの」。なにかとても意味深なのである。露骨にではなく、遠回しに「短歌は文学ではない」と言われているような気もする。でも、たしかにそうだ。全ての短歌が文学であるとはなかなか思えない。同じ作者の中でも、余興的なものがあったり、日記的なものもある。それこそ、海外旅行をした時の記憶装置になっているような歌だってある。だから、短歌は文学であらねばならない、というわけでもないのかもしれない。
 しかし、それじゃつまらない。そういう反発心が熱高くくすぶっていなければならない。けれども、その思いこみが激しすぎると歌って行けなくなる、ということもある。詩はいずこに、方法は革新的か。それだけを考えているのは重い。まして、その重みに耐えられず歌えなくなってしまうのでは、元も子もない。 以上が年初に考えた、ああでもない、こうでもないの迷妄である。

 
個性98年1月号

記憶音楽大全


 心うきうきとする発想が浮かんだ。それは、コンピュータなどの恩恵によるものだ。短歌時評とは言えないかもしれないが、話としては面白いはずだ。
 さて、音楽には「さび」と言われる部分がある。侘び・寂びの「さび」ではなく、曲の中での中心的な旋律の部分だ。クラシック音楽で言えば「主題」ということになるだろうか。定義づけはどうでもよいのだが、その「さび」の部分だけを、それこそ、これまでにレコードやcd(コンパクトディスク)として世に送り出された作品全て(クラシック、ポピュラー、ジャズなどジャンルを問わず)から抜き出して、電子情報化する。そういう試みを発想したのである。ちなみに、さびの部分だけとするのは、情報量の肥大化を防ぐためだ。しかし、これを個人の力で行うことは不可能だから、たとえばレコード会社が協力して、この発想を実現してくれれば、個人として次のようなことが可能になる。
 情報圧縮技術が飛躍的に進歩し、仮に全音学のさび部分が、たとえば百枚のcdに納められたとしての話だが、そうなると、自分のコンピュータからそのcdを読み出し、聞いたことのある音楽をピックアップしていくということができる。根気の要る作業ではあるが、ピックアップした音楽のさび達を集め、さらに時系列に並べ替え自分だけの「記憶音楽大全」を作成する。そして、その大全をコンピュータから利用するのである。
 まずコンピュータを起動。次に記憶音楽大全をスタート。スピーカーから、自分の聞いたことがある音楽のさびが次から次と流れ始める。人によって曲数はまちまちだが、おそらく万単位だろう。これを聞き続ける。根性を入れて聞き続ける。さて、僕の頭に何が起こるか。実はそのことこそが、この発想の真の目的だったのだ。
 音楽の記憶喚起作用は強い。これを利用し眠ったままの記憶を呼び覚ましてやろうというわけだ。人生の色々な場面に音楽は強く深く関わっている。それどころか、ほとんどの場面に、といってよいかもしれない。となれば、記憶音楽大全を聞いている僕には、記憶が洪水のように押し寄せてくるにちがいない。
 僕はそれを書き留める。おそらく、手の動きは、記憶噴出のスピードに追いつかない。それでも、書き逃しがあってもいいから、とにかく書き留める。まるで自動記述のようにだ。疲れたら大全を止める。そして、再開する。大全が一サイクル終わったら、次の機会に同じ事を繰り返す。そして書き留め続ける。これを十サイクルも繰り返したとしたら、僕は人生のかなりの経験を「意識的」に思い出すことに成功しているはずだ。
 それで何になる、と聞かれたら困る。だが、僕は自分の文学の原点、短歌の原点、そんなものが見つけられるのではないか、あるいは、記憶の重装備によって短歌のリアリティ、バラエティの顕現に役立つのではないか、という気はしているのだ。


 
個性97年12月号 

共同制作


 歌仲間との雑談の中で、こんな話をしたことがある。
「俵万智のような短歌をつくれば世間一般受けするから、ああいう歌をつくってみようよ」
「そうだな。やればできるかも、いや、きっとできる」
「有名な短歌の賞だって、受賞作の傾向を分析して対策を打てば、かなりの確率で賞をとれるんじゃないか」
「どうせなら、ここにいるみんなで作品を練り上げようよ。一人でつくるより、いろんな視点が入るし、技巧の巧拙も客観的に判断できる」
「それに、意見を戦わせているうちに新しいアイデアも」
「他人が実作に介入してくるのだから、一人よがりな歌い方もできない」
「企業だって、売れる新製品を作るために、たくさんの人のアイデアを集めて、批評し合って、企画を練り上げる」
「でも、短歌って商品と同じなの?」
「………」
 冗談半分の会話だったとはいえ、みんな妙に面白がった。会社で言えば、会議の活性化だった。
 不謹慎極まりない、と叱られる筋の話かもしれない。でも、ちょっと考えてみると、なぜ不謹慎と叱られるかもしれないと僕は思うのだろう。売れる短歌をつくりたいと思ってはいけない、短歌は一人で作るもの、そういう意識が僕の中に潜在しているのだろうか。
 きっと、その通りだろう。「売らんかな主義は、世の中に迎合することであって、それは停滞あるいは低迷の温床である。歌人たる者、自己の個性の実現を目指して、主題の深耕と方法の錬磨に努むべし」。僕の深層心理には、おそらくこういう言葉が、どっかとその位置を占めているのだ。そういうわけだから、ましてや多人数による共同制作など「もってのほか」ということになる。
 この「歌人たる者うんぬん」という規範の力は強く、その強さゆえに、それに反発する力も生まれてきた。ライトヴァースや記号短歌がもてはやされたのも、この文脈で理解できるし、「エンターテイメント短歌」「物語短歌」など様々な意匠が試みられているのもその流れであろう。あの雑談での、賞取り、世間受けを目指した共同制作という企みにも、世間受け、受賞という目的の他に、規範の拘束から解放され活性化したいという願望があっただろうと思う。
 しかし、たとえ共同制作によって売れる商品(短歌)を作ったところで、自分の人生に責任を持って認識し、表現し、現状から向上する、という「表現者としての意志の実現」は、望むべくもない。だから、所詮「共同制作は遊び」と弁えておくべきなのかもしれない。
 けれども、共同制作による作品によって架空の人物が角川短歌賞や短歌研究賞を受賞する、そういう日が決して来ないとは誰にも言えない。

 
個性97年11月号時評

モデル主人公


 短歌は「われの文学」である。われの文学とは私小説のようなもので、自分の経験を基本に、自分が詠嘆することを意味している。そればかりではない、と批判の声も聞こえてきそうだが、大多数の短歌が「われの文学」であるとは言えるだろう。
 さて、一作者として自分の歌作を振り返ってみると、何年かおきに必ず行き詰まり、ある程度もがいて、向上したか下向したかはさておき、次のステップに進んでいることが分かる。その転機のときに思うのが、われの文学たる短歌の限界だった。つまり、結局うたうべき目新しい素材がなくなっているのである。「経験は広がるばかりではない、深まりもするものであり、その深みこそが短歌に新しい境地をもたらすのである」「同じ素材でも見る角度が違えば、様相は改まる」などと言われて、そのたびに「お説、ごもっとも」と思うのだけれど、経験の深化も多様な視線の獲得も、過ぎゆく年月の中で次第におこなわれていく性質のことだから、「あすのパン」にはならないのである。
 というわけで、何か別なことをやってみようとアイデア勝負に出る。その一つが、たとえばモデル主人公の導入だった。とくに、社会で話題になっている事柄に深く絡んだ主人公などを想定すると、「どんなストーリーを仕立てようか」と急に想像力が活性化されてくるように感じたものだ。おまけに、「このストりーの一場面一場面を短歌で表現できたら、普段短歌を読まないような人にも、読んでもらえるのではないか」と、こちらの方でも想像力がたくましくなってくるのである。
 不倫の恋愛歌集『チョコレート革命』もこのような発想から生まれてきたのだろうか。作者はいわずもがな、俵万智。『サラダ記念日』ほどではないが、やはり書店での売れ行きは好調らしい。そして、それとは裏腹に、僕も含めて歌壇関係者の評判は芳しくない。
「味が薄い」というのが、大方の感想のようだ。「頻繁に出てくる比喩が、同心円上をぐるぐる回る印象になってしまう。あえて核心に迫らないとしても、あまりにも多い」(某女性歌人)、「通俗性にひねりがない。本当に意識的にフィクションとしてのエンタテインメント性を目指すなら、著者自身が想定している読者のレベルが低すぎるのではないか」(某男性歌人)と手厳しい。おそらくは実体験に基づかない、架空の主人公による物語歌集の弱点が露呈されたかたちだ。実生活における具体的な抒情(これをリアリティと言ってもよい)がなければ、読者の共感を得ることは難しい。
 とはいえ、モデル主人公の導入に可能性がないとは言えないだろう。チョコ革は失敗した(玄人受けしなかった)ということにすぎない。文学の方法は、それを推進する強力な作者の登場を、常に待ち焦がれているものだ。この方法による優れた歌集が、実力歌人の手から世に送り出される日がきっとくるに違いない。

 
個性97年10・11月号


インターネット歌集(上)


さきの雨のちのしぐれと降りつぎてきみに逢ふべき日はちかづきぬ
みんなみの風の岬に群れてゐるまなこさみしき馬をおもひき
みづいろの岬は夢の突端となりてかがやきゐたりけるかも
どうしてもあなたへかへる感情のあるいは稜線のごとき起伏は
泣くことしかできない夜のかたはらに鳴ってゐる夢のやうなアンダンテ
わたくしといふ水面のふちにくるあはくかなしきかぜとおもへり
 中山明の第三歌集『ラスト・トレイン』から抜いた。ここに示した中山の歌は、紙という素材で作られていない、だから書店には出回っていない、もちろん歌壇関係者に発送されてもいない、インターネットでだけ閲覧(ブラウズ)できる歌集に掲載された歌である。作品をよく見ていただたくと、印刷物である歌集に載っている歌とまったく変わりない普通の作品であることに気づくだろう。違うのは、歌集の流通経路だけである。
 インターネット上に出版する。これはどういうことか。流通の仕組みはどんなもので、その独特の流通機構をのみ利用した彼の目的はどのへんにあるのだろうか。
 インターネットは、電話回線とコンピューターを通じて世界をかけめぐる情報ネットワークである。だから中山の歌集は、インターネットに接続できる環境を持っている者なら誰でも、世界中のどこからでも読むことができ、また歌集の電子情報を自分のコンピューターに保存することができる。料金的にはほとんど市内電話料金しかかからない。
 また、百万円以上もの大枚をはたいて出版していた印刷物としての歌集に比べて、インターネット歌集にかかる制作コストは、桁違いに低い。コンピューターを持っていることを前提にすれば、歌集制作コストは、専用ソフトにかかる約二万円程度に過ぎない。これだけの安さで、しかも可能性としては全地球の人々に自分の歌集を公開できる。
 しかし、「可能性としてのインターネット上の何千万人という読者よりも、本を配った先の読者の方がちゃんと読んでくれるという意味で信頼できる」「歌壇ではインターネット上の歌集は、歌集として認知されないだろう」「書評も出ないだろうし、もちろん賞の対象にもならない」など、インターネット歌集への否定論も当然あり得るはずだ。
 ところが中山は、インターネットにだけ歌集を出版した。金がない、という理由でそうしたのかといえば、憶測の域を出ないが、たぶんそうではない。では、彼の狙いは何か。もし僕が彼と同じ行動をとっていたとしたら、自分の行動をこう説明するだろう。印刷物としての歌集にまとわりつく、歌壇の様々な桎梏から自由でありたいのだ、と。それは、歌壇で積んできた年功を自ら否定する道であると同時に、文学の自立をめざすイバラの道でもある。その辺の事情の詳細は次回に書きたいと思う。


インターネット歌集(下)

 印刷物ではない、インターネットでだけ普及する歌集を出版した中山明という歌人の狙いについて、「印刷物としての歌集にまとわりつく、歌壇の様々な桎梏から自由でありたいのだろう。それは、歌壇で積んできた年功を自ら否定する道であると同時に、文学の自立をめざすイバラの道でもある」と書いて終わった前回の続きである。
 現在の歌集出版を取り巻く事情は、結社制度を抜きにしては語れない。出版の主体はもちろん作者だが、それは「○○結社の□□さんの歌集」というように、歌集の外部への見え方は、結社というフィルター越しなのである。主宰の了解を得、主宰なり幹部の序文や跋文をいただきお墨付きとし、歌壇への速やかで確実な流通の道を確保する。結社によって差はあるだろうが、送られてくるさまざまな歌集を見ていると、その図式に大差はないようである。また、新聞や総合誌など各種メディアにできるだけ広く取り上げてもらうためには、結社自体の歌壇における認知度や影響力が大きく関係する。というように、出版は純粋に個人の独立事業ではありえず、歌集は個人だけの所有物ではありえない。そして、それに対する評価さえもが、結社への配慮という濾過を経たのちの当たり障りのないものが大半ということになっているのである。
 こういう歌壇というシステムは、生活の場を歌壇にのみ定めたときには、より良い生活感情を得るのに有効なシステムとして機能する。しかしひとたび、外の世界へ、もっと広い世界へ、自分だけの力で、というような希求を抱いたときには、システムの限界も見えてくる。そもそも文章による自己表現を志した者は、よほどの達観者ででもない限り、できるだけ多くの読者を獲得したいはずである。しかも獲得したいと願う読者は、手慣れた批評を丁寧に書き送ってくれる、あらかじめ想定されている読者であるよりも、純粋に作品の文学性によて惹きつけたと信じられるフリーハンドの読者なのである。
 しかし、その道、すなわち一作者として純粋に独立しようという道は、とても険しい。考えてみるまでもなく、それは実感として明らかだ。得体の知れない作者の本など、どこの誰が好んで読んでくれるだろうか。情報洪水のこの時代、言葉は悪いが、本などまさに腐るほど出回っているのだ。
 それでも、中山明はインターネット歌集を出した。最初のうちの読者は、歌壇のインターネット仲間に限られることだろう。しかし、「やがて」という可能性は否定できない。偶然の訪問者(自由な読者)をたとえ一人でも惹きつける文学性(魅力)があるならば、それは理論的にはインターネット上の無数の読者を惹きつけ得るということである。しかもインターネット歌集がずらりと並ぶページが今後生まれてくれば、その集団の力によってネチズン(ネットの市民)への訴求力が今より高まることは確実なのである。








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