歌人インタビュー

小池光さんに聞く

2021年「熾」9月号掲載)

                     斉藤光悦


斉藤 まったく私的な興味にもとづいて、短歌のリズム、小池さんの独特の視点、この二点に絞ってお話を聞かせていただきたいと思います。「リズム考」(『街角の事物たち』所収)というたいへん分かりやすく、興味深い論考があります。
小池光 短歌って五七五七七ですよね。だれもそれを疑わないでつくっているわけだけど、ちょっと考えてみれば、なぜ五七五七七が短歌であるのかとか、四とか六ではなく五とか七なんだ、という疑問がもたげますよね。そういうことが、短歌をつくりながらすごく不思議に思えて、いろいろ考えました。でも歌人がこのへんのことを書いた本はほとんどなかった。それで、言語学者の本を読んだり、自分でも考えたりして辿り着いた私なりの結論が、こういうことだったわけです。つまり、短歌の本質というのは、五とか七とかの数字にあるのではなく、五句三十一音を構成する句ひとつひとつを同じ時間で読むというのが核心だということです。そこに日本語の定型が発生するというのがわかって、ああそうなのか!と、自分としては決着がついた感じでした。
斉藤 楽譜は等間隔に縦棒で仕切られています。その縦棒で仕切られたそれぞれの小節の所要時間は等しい。この小節は十秒かかり、次の小節は二十秒かかるということはない。小池さんの言う「句ひとつひとつを同じ時間で読む」というのは、そういうことですね。
 読者にこのことをよく理解してもらうために、熾誌上では「リズム考」の中の文章と楽譜を引用させていただきます。こんな卓見を三十歳半ばで書いていることに驚かされます。
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 あくまでぼく自身に限ってであるが、短歌はどのようなリズムとして、感覚されているか。それは次のようなものである。


 この五小節のリズムが、ぼくにとっての短歌らしさのすべて、である。〈中略〉第一に、短歌にはことば以外にア・プリオリにある種のリズムが付帯しているということであり、第二にそのリズムは前回挙げた三つの条件※を満たしている、ということにつきる。
(三つの条件とは、@短歌は五小節より成るリズム形式であるA第一、第三小節は同一の緩形式であり、第二、第四、第五小節は急形式であるB第一、第三小節の後には休止符をもつ)
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小池 「ひさかたのひかりのどけきはるのひにしづこころなくはなのちるらむ」を、短歌として読むとどうなるか。ひさかたの、までをゆっくりと読み始めいったん休止をとり、そして、ひかりのどけき、にある加速度を感じながら移ってゆき、次いで、はるのひに、を再び緩いテンポに減速して読む。ここでもまた休止をとり、そのあとは一息に加速された早いテンポで、しづこころなくはなのちるらむ、を読み下す。短歌らしく読めと言われればだいたいこう読むわけですね。
 このように五句を同じ時間帯で読むというのが短歌の本質で、そういう定型というのは、他の言語にはないと思います。中国の漢詩は、韻を踏んだり複雑ではあるけど、簡単にいえば文字の数が定型になっている。五言絶句とか七言律詩です。ヨーロッパの詩にはソネットという定型がある。これは十四行という行数が定型。韻も踏みます。しかし日本語ばかりは、文字の数でもないし、行数でも韻でもない。句を同じ時間で読む。そのために、読むスピードを変化させるということで定型が成り立っている。
斉藤 どんなときに気づいたのですか?
小池 明治以降のわれわれが学校で習った歌謡、たとえば「はるこうろうの はなのえん めぐるさかづき かげさして」とか、現代の歌謡曲「あなたかわりは ないですか ひごとさむさが つのります」は七五調ですよね。こういう日本の歌謡が連綿とあってその楽譜を見てみると全部、最初の七と次の五がそれぞれ等しい数の小節の中に入っているわけですよ。同じ小節というのは同じ時間ということです。それが、五七調・七五調の核心であって、五音と七音がすべて同じ時間で読まれるということは、短歌だけでなく、身近な歌謡曲をみてもそうなのです。小節と五音七音の関係については、岩波文庫から出ている『日本唱歌集』には明治以降の唱歌の歌詞と楽譜が載っていますが、この楽譜を見れば一目瞭然です。五音と七音が等しい時間で読まれる。これに気づいたときは、こういうことだったのか、と思いました。
斉藤 短歌のリズムをここまで分析的に考えている人はあまりいないでしょうね。歌会などで批評をしたり聞いたりしていても、なんとなく窮屈だとか、急ぎすぎるとか、緩急のバランスがうんぬん、みたいな、なんとなくの印象批評で終わるのが多いように思います。リズムを分析的に批評するのは難しいことだと思っていました。『リズム考』にある小節の話をあてはめると、短歌の創作、短歌の批評どちらについてもかっちりした「基準」になると思います。
小池 このリズム論をベースにしていれば、たとえば破調の歌があった際に、どういう破調が可能で、どういう破調は不可能かというのが分かるんですよ。破調には字余り字足らず両方あるわけですが、字余りでいえば、五七五七七の七七の代わりに八とか九になったときに、さらに速く読むわけですね。字余りの歌は無意識のうちに速く読んでいる。そこが核心ですね。この字余りは無理だと感じる時は、それは同じ時間では読めないからでしょう。
 経験的にいうとこういうことがありますね。うんと破調しているが定型を感じる歌がある一方、あるいはその逆、いまの若い人の歌なんかに多いですが、破調せず五七五七七を律儀に守っているがあまり定型性を感じないとかですね。長くても定型を感じたり、ちゃんと守られていてもあまり感じないのはなぜか、ということが、このリズム論に基づいて考えると明晰にわかるんです。
斉藤 小池さんは理学部出身です。物事を分解して分析するという思考スタイルが身についていらっしゃるのではないかと感じます。短歌人の歌会などで、音譜を持ち出したりするんですか?
小池 それはないですね。これは無理、とかは言いますけどね。あるいは、この字余りは面白いとか。
斉藤 でも、ご自分の頭の中には、この音譜、小節が明確にあるんですね?
小池 もちろんそうです。
斉藤 定型、リズムについて私たちはどう心がけるべきでしょうか。
小池 歌人というのは、五七五七七という定型の本質をつねに考えないといけないわけです。それをあまり考えないで、五七五七七だけを無条件に受け入れて、自分もそれに合わせて作っているだけっていうのは、すごく表層的な感じがしますね。なぜ短歌という形式だけが千三百年もの長きにわたって生き残ってきたのか、それに対する答えというのそれぞれどこかで持っていないと、すこし無責任な感じがします。
斉藤 小池さんは、独特の視点、同じことでしょうが、視点の面白さ、ということを取り上げられることが多いように思います。角川短歌が小池さんの特集を組んだ時の座談会のタイトルも「小池光の視点の『面白さ』」でした。この視点ということ、世界の分節ということについてお聞かせ下さい。「分節」に関しては、こんなことを仰っていますね。「全ての人は世界を分節して生きている。その分節の仕方を、わずか一パーセントずらした時に、今までの世界とは違うものが現前する。それが詩を書く意味でないかしら。そのために書くわけであって、言葉で世界を追認してるわけじゃない。」たいへん興味深く読ませていただきました。
小池 分節、それについては、ソシュールの言語論に大きな影響を受けました。私は、リズムを考え始めるより前に、そもそも「言葉(言語)とはなんぞや」という疑問が根底にあって、学生のときから不思議に思い、考え続けています。ソシュールの言語論に出会うまでは、言葉とは、ごく素朴に、もともと客観的にある物や事に貼られたレッテル(ラベル)だと思っていました。もともと山というものがあり、あるときある人がこれは山だと言って、そして「山」というレッテルを貼る。それをみんなが、山だ、山だと追認する。そういうふうに、言葉(言語)というのは、もともとある事物に貼られたレッテルだと思って、私たちはふつう生きているのではないでしょうか。単純に言ってしまうと、物が先で、そのあとに言葉があると。たとえば犬という動物がいるから犬というレッテルが貼られたというように、たぶんほとんど人がそう思っているのではないでしょうか。ソシュールはそれはまったく誤解で、それは逆だと言ったわけです。最初から世界が分節されているのではなく、言葉によって世界が分節される、ということを。われわれは、山とか川という言葉を知っていて、それによって世界を分節して、ここからここまでを川といい、ここからここまでは山という、というように認識しているのだと。このソシュールの言語学をあるとき知って、ヒエーとびっくりしましたね。もっと早く知っていないといけなかったのでしょうが。繰り返しになりますが、言語は事物に貼られたレッテルではなく、むしろ世界は言語によって分節されている。まさに目からうろこが落ちるようなあざやかさを感じて、机の上がうろこでいっぱいになるくらいでした(笑)。とても感動したものだから、いろんなところで言ったんですけど、これも歌人はほとんど無関心で、見向きもされなかったことを覚えています。でも、ソシュールの言語学というのは、なんというのかな、世界の根本を探っていますよね。
斉藤 小池さんの独特の視点の秘密がすこしわかったように思います。最後に、ご自身の歌でお気に入りの歌というのがあったら教えていただきたいのですが。
小池 そういうものはないんですね。いつまでたっても不満だから。だから書いていくみたいな。いつか満足できる歌ができるかと思って。これでいいかなと編集部に送って、実際に活字になったのを見ると、やはりこれではだめだって。そんなことの繰り返しです。
斉藤 そういえば、「わが希《ねが》ひすなはち言へば小津安の映画のやうな歌つくりたし」。最新歌集『梨の花』の中にはこういう歌がありましたね。きょうは、お忙しい中、有り難うございました。
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小池光作品抄

いちまいのガーゼのごとき風たちてつつまれやすし傷待つ胸は    『バルサの翼』
廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり         『廃駅』
佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず   『日々の思い出』
そこに出てゐるごはんをたべよといふこゑすゆふべの闇のふかき奥より  『草の庭』
ひとたばの芍薬が網だなにあり 下なる人をふかくねむらす        『静物』
チェルノブイリの人去りし村に夏草はうつしみの美のかぎりをつくす   『滴々集』
人間はもののはづみにドロップの缶の出穴《であな》をのぞくさへする    『時のめぐりに』
嫁ぎたる子より電話きて妻のこゑ灯《とも》るがにあかるくなれるかなしも    『山鳩集』
着物だつて持つてゐたのに着ることのなかりしきみの一生《ひとよ》をおもふ  『思川の岸辺』
春の小川ながれてをりて一瞬にわが電車越ゆそのかがやきを       『梨の花』
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