現代短歌新聞 2021年3月号

本木巧『夕べの部屋』書評
過ぎゆく夢の如き時間

斉藤光悦

 「長風」選者・編集委員を務める著者の第三歌集。五十代半ばより六十で退職してから数年までの作品を収めた。この間、東日本大震災があり、生まれ故郷の釜石も被災した。やがて亡くなる老父を老人ホームに見舞い最期の時間を見つめている次の歌から歌集タイトルがとられている。

また来ると告ぐればひとつ頷きてあとは音せぬ夕べの部屋に

 この歌にある「夕べ」という雰囲気、そしてそれに似通った雰囲気と心象が、老父や老母の歌だけでなく、歌集全体の基調低音となっている。異界との境界線のあたりの薄灰色の曖昧模糊とした、滅びゆく、失われゆくあわれな世界とその心象という感じだろうか。

点点と街灯の灯の映りたる夢のごとくに川の流るる

かなかなの鳴きては止みぬ夕暮れを魔界のごとく山かげ迫り来

山かいにおびただしくも墓群の黒きかげあり夕暮れのころ

西空にかすかに残る夕明り悔いにも似たるその淡きいろ

雪降ればなべてのものに積もりゆく忘るることを強いるごとくに

冬の日に空かぎりなく澄み徹り溶け残りたる雪くれあわれ

 影、暗い、まぼろし、夢、かたむく、消える、暮れる、翳る、ひそけく、夕闇などという言葉が集中数多く出てくる。これは師である毛利文平氏が第一歌集『夏の日』の序で「淡々とした中に静かに沁みるような情感をたたえている。根底には孤独な思いが深く感じられる」と評した著者の本性なのだろう。過ぎゆく夢の如き時間への哀切な思いに満ちた歌集である。最後に、孤影が浮き出して漂う秀歌を一首。

客のいぬカウンターにて酒呑めば見慣るる主人の白髪ひかる



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