集中五百首以上の歌の中に、何を歌っているのか分からないと首をひねる歌がほとんどない。この明晰さ。そして独りよがりの情緒や観念を徹底的に排除する潔さ。なんでもない嘱目詠のようでありながらいつの間にかそれだけでない像が立ち上がってくる。あるいは、わずかに非日常的世界へとずれ込む。こんなところが沖ななもの歌の特徴だと私は思う。そして、この特徴は歌壇でも広く認識されているだろう。言うまでもないが、彼女の歌は文字通り独自である。
ロシアフォルマリストの「異化作用」を持ち出すまでもなく、現実は認識の自動化作用によって、生の実感を伴わずにただ流れていきやすい。そこで、「ちょっと待って。もう一度あの瞬間にもどって、体験を再現してみよう」と促すのが、沖ななもの歌である。日常的な言葉を巧みに組み上げて「違和」を投げかけ、存在のあやうさ、不確かさのようなものをを表現する。沖ななもの歌を読むと私はいつも、彼女のそばにすっと立ち現れるもう一人の彼女を想像してしまう。パラレルワールドにいる、あるいはそこからやってくるもう一人の彼女は、いつも彼女に何ごとかささやくのだ。
このような異化の表現には、たとえば、同じ言葉をあえて繰り返す語法が効果的である。沖ななもの歌の大きな特徴であろう。短詩型の限界を逆手にとった表現であると私は思う。
目覚ましの鳴る前に目覚める習慣のいつか目覚めぬ日の来るまでは
紅葉(もみじ)の葉浮き沈みつつ底に落つおちつくところにおちつきゆくか
雨音の聞こえて窓を開けたれば月がでており月光に音あり
ただいまと言えば家内(やぬち)に何やらが動けりおまえもさみしかったか
自動車のすぎたるのちに自動車の匂いの残る道に立ちおり
昆虫の屍骸(むくろ)を運ぶ蟻たちにも夕暮れが来る朝焼けがくる
「昔はね」がふと口をつくこのごろがガラスの窓にうつるこのごろ
無人駅のホームは春日あまねくて誰もが遠し誰もが淡し
庭に降る雨を見ていつ窓に散る雨を見ていつ昼も夕べも
言葉の繰り返しが効いている歌たちである。同じ言葉を使うのはもったいないと、批判されるかされないか。そのぎりぎりのところの表現だと思う。けっして、いわゆる短歌的な抒情には引き込まれはしないと踏ん張っている意志の力をこのへんに感じる。
日の落ちるまでを見尽くし窓を閉むもうとりかえしつかぬごとくに
誰の撞く鐘か夕べを聞こえきてある感傷を揺らしてゆけり
これらは、もしかすると「沖ななもらしくない」歌かもしれないが、心に染みる歌だ。こういう歌もあるから、「らしい歌」とのギャップが違和感につながってもいる。歌集というのは面白い。
沖ななも歌集 『日和』評
(熾2016年12月号掲載)
日常語で紡ぐ存在の不確かさ