詩歌物語り

阿波踊りの季節に


     千万の下駄の歯音や阿波おどり

     手を上げて足を運べば阿波踊

     香具師の灯に踊子の汗彩めけり


*  *  *

「阿波踊りが始まったよ。あした、泊まりがけで遊びに来ないか」
 埼玉の越谷に住んでいる佐々木から電話があったのは八月下旬の晩だった。
「まだ続いているのか、あの祭り…」
 私は続いていることを知っていたが、そんなことを言った。
「続いてなけりゃ誘わない。かならず来いよ。きっと、びっくりするぞ」
「タレントでも踊りに来るのか?」
「来れば分かるって。それに、たまには飲もうよ。美智代もおまえに会いたいとさ」
 佐々木とは、年に一度や二度は飲んできたが、美智代とは何年会っていないだろう。
「わかった。行くよ。どこで待ち合わせる?」
「駅のホームまでおれが迎えにいくよ。大サービスだ。改札口は人で一杯で、探すのに一苦労だろうから」
 久しぶりに聞く佐々木の声は、祭りがあるせいなのか妙に高ぶっていた。

 地下鉄で浅草に出て、そこから東武スカイツリー線の急行に乗った。沿線に住む利用者は気恥ずかしくてその名前を言えず、いまでも正式名称の伊勢崎線と呼ぶ人のほうが多いらしい。電車は東京の下町を抜け北千住に停まり、そこから十分もせずに埼玉県に入った。草加駅で停車すると目的の新越谷までは5分もかからない。草加と新越谷の間には「松原団地」という駅があるが、急行はそこには停まらずに通り過ぎる。
 この垢抜けない名前の駅は、私や佐々木が通った大学の最寄り駅だ。来年からは駅名が「獨協大学前」に変わるという。東洋一の規模とも言われた団地群は、建設後半世紀以上を経てマンション群への立て替えが進み、いまはもう「団地」という景観はないのだと新聞記事で読んだ。ホームを通過する際に車窓から駅名看板を目にしたとき、明日は松原団地駅に別れを告げに立ち寄ろうと思った。大学のキャンパスにも足を延ばし、昔を懐かしみたい。
 新越谷で電車を降りると、真夏の熱気と祭りのざわめきにつつまれた。高架のプラットホームのうす汚れた窓から、流し踊りの列や見物の群衆、居並ぶ屋台の赤ちょうちんが見える。窓に顔をよせた。鳴り物の二拍子が聞こえる。
 後ろから肩をたたかれた。
「関根、ひさしぶり。おい、おい、なんだ? その足は」
 佐々木が私の足元を指さした。見ると、音に合わせて勝手にリズムをとっている。
「魔法にかかったみたいなもんだ」
「人を阿呆にする魔法だな」
 ホームから階段を降り自動改札を抜ける。駅ビルのコンコースは人でごった返していた。そろいの黄色い法被を着た若い男女がうちわを配っている。うちわには「第回 南越谷阿波踊り」という字が大きく印刷されている。「南越谷」は、東武線新越谷駅に隣接するJR側の駅名だ。祭りの名前はこちらの駅名から取っている。
「三十二回目だとさ。あれから三十二年ってことだ」佐々木はうちわの「」の字を指先でとんとん叩いた。
 私は騒だつ心を抑えきれず、先を歩く佐々木に言った。
「そろそろいいだろう、話してくれても。何を見せてくれるんだ」
「あせるな。すぐにわかる」
 佐々木はそのうちわで私の顔を仰いだ。

 焼きそばや焼き鳥、たこ焼きといった屋台からの香ばしい匂いと煙りがただよい、笛や三味線、鉦の音が蒸し暑い駅前通りを覆いつくしていた。見物客の歓声と拍手、酔っ払いの大声、子どもの泣き声、沿道の商店や屋台の客引きの呼び声が重なる。ときおり、踊り子たちの甲高いかけ声が空中に流れる。
 ヤットサー ヤットサー! ヤット ヤット!
 風がさっと吹いたようにひととき暑さが失せる。「ヤット」は久しぶりという意味がある。ひさしぶり、ひさしぶりと声を掛け合っているのだ。
 女踊りは、深くかぶった編み笠、色とりどりのゆかたと帯、足元は白い足袋と黒い下駄。白手甲をはめ頭上に掲げた両手を左右交互に前に繰り出しながら、指先もひらひらさせる。腰をひねり一歩一歩進むごとに地面を強く打ち下駄を鳴らして裾を蹴上げる。足首からふくらはぎがあらわになる。その色気と「ヤットサー」のあわれなかけ声が女踊りの華だ。
 片や男踊りの粋は、ほとばしる熱情。腰を落としがにまたになって、右手でうちわや提灯をさばきながら、地面を足でなでるように進む。鉦の合図で、一気に躍動して所狭しと暴れ回る。世の中は女と男。他に何がある。この踊りを見るたびにそう感じる。人生は小難しく考えることなどない。単純でいいのだ。見ているとストレスが飛ぶ。憂さが晴れる。
 佐々木はときどき腕時計を見ながら雑踏をかき分けていく。
 道路に敷いたブルーシートに座っていた中年の女が、手を振っていた。佐々木の妻の美智代だった。これだけ立ち見が多い中で一人で席を確保しているのは心細かっただろう。
「関根君、ヤットサー」
「ヤット、ヤット、美智代。ひさしぶり」私も手を振ってこたえた。
 まずは乾杯しようと美智代がクーラーボックスからビールを出した。
「ありがとう。ここ、一等席じゃないか」私はすぐ近くの本部席を見ながら言った。
「午後一番くらいに来ないとこの席は取れないのよ。最初に旦那が来て、途中で私と交代したの」
 美智代の頬が心なしか赤く見えたのは日焼けしたせいだったのだろう。
「おまえたちは毎年こんなことしてるのか?」
「おれたちを結びつけた祭りじゃないか。毎年見ないと気が済まないよ。家も近いし、来なかったのは一度か二度しかない。雨が降ったって傘をさして見ているよ」
 美智代が紙皿に乗ったタコ焼きを私と佐々木の中間に差し出しながら言った。
「越谷で阿波踊りが始まったとき、私たちいつも一緒にいたね。香代子、どうしてるんだろう」
「おれがそんなこと知るわけないだろう。美智代はなにか交流はあるのか?」
「ううん。ほとんどないよ。何年か前に一度会ったきり」
「そうか…」
「なにも聞かないの?」
「とっくに関係のない人だよ。いまさら何を」
「忘れたかったんだよな、香代子のことは。でももういいんじゃないか。無理すんなよ」
 そういいながら佐々木は、二本目のビールを手渡してくれた。

*  *  *

 三十五年前、私は北海道東部の田舎町を出て、草加市にある獨協大学に入学した。。草加は草加煎餅や、かつて東洋一のマンモス団地と言われた「松原団地」で知られる埼玉県南東部にある東京のベッドタウンだ。実際は埼玉県にあるが、田舎の親類や友達には、東京の大学に入り、東京に住むと教えていた。実際、草加は東京北端の足立区に接し、東京の近郊と言えないこともない。埼玉の大学に入り、埼玉に住んでいるとは故郷の人たちに言いたくなかったし、自分もそう思いたくなかった。北海道出身の田舎者にとっては‘東京’が大事だった。
 それは私だけの思いではないようだった。地方出身者、とくに東京から離れれば離れるほど、そういう思いを抱いている学生が多かった。もちろん大学生になって勉強するのが目的だった。だが、東京人になりたい、なんとしてもなる、というのも正直な気持ちだった。くだらない思い込みだと今なら思うが、当時は若かったのだ。仕方がない。
 市内にアパートを借り自炊した。六畳の部屋と二畳の台所とトイレ。風呂はなし。風呂付きのアパートは贅沢だし、まだ珍しかった。アパートから大学までは自転車、いわゆるママチャリで通った。途中、汚濁度の悪評高かった綾瀬川をわたり、東武線の踏切を越え、四階建ての中層棟がおびただしく立ち並ぶ松原団地の近くにある校舎まで、十五分ほどかかった。雨の日は傘差し運転。雨風が強い日は合羽を着てペダルを漕いだが、そんな日はほとんどなかった。試験日でもない限り自主休校だ。
 英語が好きだったのと、カメラマンになって世界を旅するようになれば英語が必要になると考えて、語学に関しては私学トップレベルのこの大学を選んだ。都内の有名私大に合格しなかったのがそもそもの理由だったのだが。それはそれとして、カメラマンになりたいと早いうちから思い定めていたので、あまり大学名にはこだわっていなかった。カメラの技量と、野心と根性、そして交渉力と英語力。これさえあれば、大学にあまりこだわることはないだろうという考えもあった。
 サークルは成り行き上当然のように、写真部に入った。現像室を備えた部室もちゃんとあり、わりとまじめに活動していた。時間つぶしができるので、部室があるというのがなによりありがたかった。プロカメラマンになったOBも何人かいると聞いたのが入部の決め手になった。
 入学式のときから、隣りのクラスにいた小柄で髪が短くボーイッシュな子が気になっていた。日焼けした顔とすこしつり上がった目元が印象的な南国風の顔立ちで、いつも人の輪の中心にいた。声をかけるチャンスはなかったが、堀内香代子という名前だけは知っていた。
 三年の夏、隣りまちの越谷で阿波踊り祭りが開かれることになった。越谷など埼玉県南部を中心市場としている住宅メーカーの社長が徳島の出身で、故郷の阿波踊りを広めたい、越谷の町おこしにもつなげたいという理由で始めるのだという。
 主催者は、商店会や町会、企業などに広く呼びかけ、参加する連を募集した。「連」というのは踊りのグループのことだが、私の大学でも、徳島出身の女子学生がリーダーとなって、学生の踊り手を集めて連を結成し、踊りを練習しているという話が写真部に伝わってきた。写真部は別に大学側に頼まれたわけではないが、学内のイベントや話題になった個人を撮影して、掲示板に瓦版のようなプリントをひと月に数回貼っていた。私と写真部の仲間の佐々木は、練習場所だと聞いたキャンパスの外れにある小体育館に向かった。
 四方のドアが開け放してあった。それでもかなり蒸し暑い。Tシャツに短パン姿の女子が十人ほどいる。隅に置いてあるラジカセから鳴り物の音が鳴っていた。一人だけが、他のみんなと向かい合い踊りを教えている。それが堀内香代子だった。
 ―指先はつぼみが開くように!
 ―床をもっと強く蹴って!
 ―腕が下がってきたよ。みんな、がまんがまん。がんばって!
 その指導する声が、私が彼女の声を間近で聞いた初めてだった。
 ―写真部の者です。撮影させてもらってもいいですか。
 一年の時から憧れていた女子に三年がかりで初めて声をかけた瞬間だった。
「始終撮影されるのは困ります。気を抜いたときにだらしない姿を撮られるのは嫌ですから。こちらで合図しますので、時間を決めて撮ってください」
 それからは練習日には毎日体育館や近くの公民館に行き、練習の様子を撮影し、合間合間に男踊りを香代子に教えてもらった。祭り本番を迎える頃には、「にわか連」という飛び入りの連ならそれなりに様になりそうなレベルにはなった。

*  *  *

「六時だ。そろそろ来るぞ」
 佐々木が流し踊りの出発地点の方を指さして、興奮気味に言った。「関根、あっちだ。あっちを見てろ」
 パンフレットを見ると、徳島からの招待連がこの本部席前を流す予定になっている。本部席のアナウンスが連を紹介する。その連の名前には覚えがあった。というより、忘れるわけがなかった。
 遠目にも上手の集まりとわかる連が近づいてくる。
 ヤットサー ヤットサー!
 甲高いかけ声が届く。連の名前を染め抜いた提灯を竹竿で高く掲げた提灯持ちを先頭にむらさきと白のゆかたを着込んだ女踊りが三列に並んで続き、男踊りと十人ほどと、鉦や三味線、太鼓、笛の鳴り物を引き連れてくる。
 先頭の真ん中の踊り子を見て、私は思わず声を上げた。
「どうして彼女が…」
「わかったか、やっぱり。おまえが分からないわけがないよな。見せたかったのは、これだよ」
 動悸が耳に届くほど高まった。私は踊り子に目を奪われたまま佐々木の言葉をうつろに聞いた。
 深々とかぶった編み笠の下のきりっとした目元、真正面を見つめる強い視線、つんとすこし上を向いた鼻、あごの短い丸い顔立ち。
 佐々木は私に写真を手渡した。
「ほら、これを見ろ」
 第一回目の祭りの本番の時の香代子の写真だった。
「あの子、香代子とうりふたつだ。佐々木、おまえ何か知っているのか?」
「いや、何も。ただ、想像はしているよ」
「関根くん。これだけ似てたら、他人のそら似ってことはないわよ」
 ずっと黙っていた美智代が夫に続いて言った。
「知りたいことがあるなら、彼女を追いかけるんだな」
「悪いな。そうさせてもらう。あとで電話するよ。今夜、泊めてくれるよな。またあとで、ゆっくり飲もう。酒はおれが買っていく。ウイスキーの角瓶でいいよな」
 連の踊りが最高潮を迎えている。女踊り十二人が円形に広がり、中心に戻る。縦三列が四列になり、二列を経てまた三列に戻る。男踊りが跳躍し、叫び、汗がきらめく。踊り子は私たちの前を通り過ぎていまは後ろ姿になり、踊り狂う男踊りの間から、むらさき色のゆかたがすこし見えるだけだった。

*  *  *

 私と香代子は、阿波踊りの練習から本番にかけての撮影を通して親しくなっていった。もともと同じ大学の同じ学年。しかもこちらは入学式の日から憧れ、彼女も私を知らないわけではなかった。カメラ機材を持ってキャンパスを歩き回っている姿を覚えていた。
 憧れという名の私の片想いは長年抑えられてきたから、堰を切って彼女へ向かった。最初は敬遠ぎみだった香代子も、撮影にかける私の情熱を浴び続けるうち、少しずつ心を開くようになった。北であれ南であれ、東であれ西であれ、地方から出てきて一人住まいしている学生には共感が生まれやすかった。東京という得体の知れない大きな存在に憧れ、一人住まいの孤独に耐えてやがて慣れてゆく。その中で生まれる共通感覚という感じだろう。これも私達の距離を縮めていった理由かもしれない。夏の初めに話し始め、その年の秋には私たちは恋人だった。ただ、私には、恋人という関係が私達にあてはまるのかなかなか自信をもてなかった。彼女は受け入れてくれたが、強く求めてくることはなかった。がむしゃらだったのは自分だけだったからだ。
 私は駅前の食品スーパーでアルバイトをした。時給は六〇〇円あったかどうか。賞味期限切れぎりぎりで半額以下に安売りされていた弁当をさらに従業員割引で二つ買い、香代子の部屋で食べた。そして、そのまま泊まった。
 香代子は家庭教師のアルバイトをしていた。市内の高校生に英語を教えた。その教え子の母親が短歌をたしなむ人で、香代子は夕飯をごちそうになりながら、短歌の手ほどきを受けたらしい。一日一首を心がけていると言っていたが、私は香代子の作品を一度も見たことがない。見せてくれと言うと、見せられるような出来じゃないと断られた。
 ただ、どんな歌人が好きか、どういう歌が気に入っているかは時々話してくれた。たとえば、「あの夏の数かぎりなきそしてまた たつたひとつの表情をせよ」。男性の歌だし、ロマンチックな歌だから、あなたもきっと気に入るわ。出版社の編集者だった小野茂樹という人の歌。交通事故で夭折したの…。加世子はこの歌の背景にある悲しいラブストリーも教えてくれた。今でも暗誦できるくらい私も好きになった歌だ。

 北海道生まれの私は、南国への憧れが強かったから九州にはなんどか撮影旅行をしていたが、四国には渡ったことがなかった。
「来年の夏は、徳島で一緒に阿波踊りを見ようか」
 私がそう誘うと香代子は、
「見るだけじゃだめよ。私が教えたでしょ、踊る阿呆になって。まさか透が私の連で踊るわけにはいかないから、一日だけ私はにわか連で踊るわ」
「同じ阿呆なら、か。でも、香代子がにわか連で踊ったら目立ちすぎるだろうな。雑魚の中にタイかヒラメがいるみたいになる」
「雑魚って、ひどすぎるんじゃない」
「いやいや、おれは雑魚だよ。ふにゃふにゃした蛸かもしれないな」

 四年生の夏、私は約束どおり徳島へ行き、「手を上げて足を運べば阿波踊り」の川柳そのままににわか連で踊った。やはり、にわか連では彼女は目立った。フラッシュライトが何度も光った。私はこの美しい踊り子が自分の恋人であることを誇らしく思いながら、いつのまにかほんとうに踊る阿呆になり、熱狂の渦のなかを流れていった。「人波にもまれ憑かれてわれもゆく高提灯の浮き沈むなか」香代子が教えてくれた歌の通りにわれを忘れて徳島の夜にとけていくようだった。

 私は理性や打算などなく、彼女を純粋に愛している、とそのころは思いこんでいた。だがあとになって思えば、東京とか大学というあこがれの舞台で、相手のためというより自分のために演じたひとりよがりの恋愛ゲームだったのだ。当時、故郷の温泉旅館で開かれた同窓会で、私は酔いにまかせて、「おれさ、四国徳島の女と、東京で一緒に暮らしてるんだ」と自慢げにしゃべっていたりしたものだった。
 けれども、だからといってほかにどんな恋愛ができただろう。私たちはまだ社会に揉まれることのない二十代代初めの半分子ども半分大人だったのだ。だからだろう、卒業が近づくにつれすこしずつ目が覚め、ふたりの間に隙間ができていった。

 大学を卒業して、私はカメラマンとして東京の小さな編集プロダクションに就職した。大手新聞社も出版社もカメラマンの求人はほとんどなかった。あったとしても非常に狭き門、採用されることはまずなかっただろう。香代子は入学するとき母親と約束していたとおり、卒業後は徳島に戻り、四国では有名な建設会社に就職した。英語がよくできたのが有利に働いたらしく、資材調達関連の部署に配属された。東京の会社はひとつも受けなかった。
 私は、二、三年は東京で勤めて、そのうちに私と結婚し、徳島から母を呼んで三人で暮らそうと現実感の乏しい思いつきをしゃべっていた。問題の先送りねと言って、香代子は聞き入れなかった。私は母親とおれのどっちが大事だなどとありきたりなことは聞かなかった。母親だと答えられるのが怖かったのではなく、帰りたいなら帰ればいい、という気持ちが生まれていた。帰らないでくれと食い下がらない私に、香代子は何かを感じていたはずだ。
 私は、香代子と結婚するために、自分の仕事をあきらめて徳島に行くつもりはなかった。せっかく田舎から出てきたのに、また別の田舎になど暮らしたくない。東京でカメラの仕事がしたい。これが何事にも優先する大前提だった。

 母ひとり子ひとりの繋がりの強さに正直いって嫌気がきざしていた。地方ではまあまあ裕福な家庭に育ち、生活の苦労を知らない私は、レールが敷かれていたり、順風が吹いているときはいいが、逆風に吹かれたり、壁がたちはだかったりすると、簡単に夢や目標を手放ししてしまう。別の事や物にすぐに目移りする。要は自分の思い通りにならないことは我慢できないだだっ子のまま大きくなったのだ。
 香代子はもっと生活の苦労を知り、逆境を乗り越える強い意志の持ち主を選べばよかったのにそうしなかったのは、大学にいる間は現実生活のありのままをあえて見ないようにしていたのかもしれない。それはもちろん意識的ではなく、彼女自身気づいていなかったことだろう。大学にいる間だけのなにか特別な時間と空間を守り抜いていくには、あこがれや夢ばかりを語る私のような非現実家が向いていたのだろうか。

 社会人として最初の夏、私は徳島に行き香代子と踊った。もう、私も香代子も、さすがにその先は見えていたが、言葉には出さなかった。何事もなかったように徳島空港で別れた。そして一年、メールを送り合ったり、たまに電話で話したりするくらいで、中途半端な関係が変わらず続いた。またいつもの夏のように徳島に行ったが、こんどは別れるか結婚するかをはっきりさせるためだった。
 東京で一緒に暮らして欲しい。もちろんお母さんも一緒に。母子がこれを受け入れてくれないなら、これで終わりにしようと思っていた。私には、心を寄せてくれる女性がいた。やがて私の妻となる五歳年上の女だった。彼女と結婚できなかったら私が結婚してやるよ、と冗談っぽく言ってくれたが、私はこの時点でまだ香代子をあきらめていたわけではなかった。母親にひとり徳島に残ってもらってでも、なんとか香代子を東京へ連れて帰り結婚する。望みは消えていなかった。

 桟敷席の上段に座り、遠くから香代子を見ていた。超望遠レンズをセットしたカメラを構えて、香代子の踊り姿を撮りつづけた。香代子は私にとってやはり魅力的だった。私たちの結婚の障害になっている母親が、なぜ自分を置いていっていいから東京で彼と結婚しなさいと言ってくれないのかと憎らしく思う気持ちも湧いた。
 祭りの翌日、私たちは眉山という市内の小さな山にロープウェイでのぼった。頂上の茶屋で、お母さんも一緒に東京で暮らそうと言った。なんとしても、是が非でもという覚悟が声にこもっていないのが自分でも分かった。香代子はそれを見逃さなかった。
「母と一緒に東京に…それ、本気なの?」
「徳島におれの仕事はない。結婚するにはそうするしかないよ」
「徳島にもカメラの仕事はあるわ。さがせばきっとある。あなたが来て。母さんはぜったい徳島を離れないわ。私はお母さんを残して東京にはいけない」
「卒業の時の話と同じだな。なにも変わっていない。おれは東京じゃなきゃ嫌なんだ」
「もう無理だよ。私たち」香代子は私の目をしっかり見ていた。「透、好きな人ができたんじゃない?」

 私は、自分を思ってくれる人がいることを正直に話した。香代子は驚かなかった。そして、実は私も、と話を切り出した。
「私も結婚を申し込まれているわ。酔った席で言われたんだけど、たぶん本気だと思う。でも、こうして会っていると、やっぱり透が好き。透と別れたら、学生時代を全部手放してしまうようで怖い」
「思い出は残るだろう」
「時間がたてば自然に忘れていくわ。阿波踊りと同じ。いつまでも祭りの陶酔は続かないの。醒めたら目の前の現実に自分を合わせていくしかない」

 下りのロープウェイで私たちは椅子に隣り合って座った。
「わたしたち。あれから何年だろう」
「たった三年か、四年」
「大学に入ってから、おたがいのことを遠くから知ってからは六、七年だね」
「長かったのか、短かったのか、よくわからない」
「香代子のことずっと忘れないよとか言わないの?」香代子が言った。「むかし、おれたちはずっと一緒だ、って言っていたわね。わたしは本気にしていなかった。無理だとは思っていなかったけど、言葉遊びだと思った。言いたいなら言わせておこうって」
「嘘ついてばっかりだな。でも、忘れないよ」
「飛行機が徳島から飛び立ったら、私のことは忘れて。私も忘れるから。できれば、草加から離れて住んで。大学や、私の住んでいたアパートから遠く離れて。おたがいに学生時代を、そろそろ本気で卒業しましょう」
 香代子の目に涙が溜まっていた。私がハンカチを渡すと、頬に伝わる前に涙をハンカチで拭った。
 タクシーに乗りこみ窓をあけると、香代子が小さく手を振った。タクシーが発車した。後部窓から振り返ると、香代子はしゃがみこんでいた。なんだ今頃、自分だけ泣いて。そう思っていたら、私も泣けてきた。香代子の涙を吸ったハンカチで今度は自分の涙を拭いた。お互いにこんなに泣けるなら、別れなくてもよかったじゃないか。香代子の母親がまた憎らしく思えた。私は、帰ったらできるだけ早く草加から引っ越そうと決めた。
 ―香代子。ほな、さいなら!
 私は飛行場のゴミ箱にハンカチを捨てた。長く引きずっていた学生時代がほんとうに最後を迎えたと感じた。

*  *  *

 佐々木たちを本部席近くの席に残し、私はその連について行った。いつも持ち歩いている一眼レフカメラで娘の写真を撮りまくった。あっというまにデータ保存メディアがいっぱいになり、二枚目のメディアをセットした。
 彼女の連はその後いくつかの通りや舞台で踊ったあと、休憩所で休みをとった。私は彼女に歩みよった。
「写真を撮らせてもらっていいですか」
「いいですよ。私ひとりですか?」
「私と並んだところを撮ってもらっていいですか」
 本場の踊り手たちは写真を撮られるのに慣れている。娘は近くにいた男衆に声をかけて撮影を頼んだ。私ははちまき姿が精悍であさ黒い男にカメラを渡し、娘と並んだ。
 男衆が大声をだした。
「同じ撮るなら笑わにゃそんそん!」
 フラッシュが光った。そして、しばらくしてもう一度。何も言わなくても二枚写真を撮る。撮影するのも慣れている。
「あなたの踊りがあまり上手なので、たくさん写真を撮りました。近くの店でプリントアウトしてきます。たしか三十分くらいで仕上がりますから。きょう最後の踊りは東口広場前ですよね。そこで写真を渡せると思います。必ずそこに行きますから待っててください」
「そんな無理しないでも…。私はべつに自分が踊っている写真はいりませんから」
「いや、お願いします。待っててください」

 周りをきょろきょろ見回していた娘に駆け寄り、レジ袋に入れた写真を渡した。
「わっ、重い! ずいぶん入ってますね、これ。でも、どうして…こんなこと」
「趣味なんです。いい写真を撮れたときは、被写体になってくれた人にいつもこうしているんです」
「それなら遠慮なく」
 娘は私の目を見ると、なにかに気づいたようにまばたきした。
「どこかでお会いしたことはありませんか?」
「あなたとですか? そんなわけは…」
「そうですか。どこかでお見かけした気がしたものですから」
 娘はまだ記憶をさぐっているような表情をしていた。
 私はメモ帳とペンを取り出して言った。
「もしよかったら、名前と住所を教えてください」
「聞いてどうするんですか?」娘は怪訝な顔をした。
「いちばん出来のいい写真を、ポスター印刷して郵送しますから。これも皆さんにしていることです。心配しないでください」
「わかりました。それなら…」
 娘が書いた名前は、香代子の名字と同じ堀内だった。住所も、番地までは覚えていないが、町名には覚えがあった。
「ずいぶん昔、徳島に行ったことがあるんです」
 私は香代子のことを聞くために、とにかく娘と話を続けていたかった。
「本場の踊りは感動的だった。知り合いが踊っていました」
「知り合いというと?」
「大学時代の同級生です」
「同級生…。男性ですか、女性ですか」
「女性です。きれいなひとでした」
「私たちの連は見ましたか。ずいぶん前のことのようですから覚えていらっしゃらないですか」
「いえ、連の名前は覚えています。あなたは、この連に入ってどのくらいですか」
「三歳の時から。もう二十年くらい」
「三歳? そんなに小さい頃から」
「母がこの連で踊っていたから。ものごころがつく前にもう踊らされていたんです」
「親子一緒に阿波踊りか。うらやましい。徳島じゃあ、めずらしくないか」
「でも、もうしばらく一緒に踊っていません」
「どうしてですか? お母さんに何か…」
「海外駐在の父についていきました。五年くらい前です」
「海外はどちらへ?」
「イタリアのミラノです。」
「ミラノか。いいところだ」
「ヴェネツィアも遠くないし。ヴェネツィアのカーニバルの時期に合わせて毎年両親に会いに行っています。母は、ヴェネツィアに張り巡らされた水路に添って阿波踊りが流していくのをいつか見てみたい、って言ってます」
「徳島も水の街だし、阿波踊りと水の流れは似合うだろうな」
「ヴェネツィアの観光協会と阿波踊りの協会が協力できればいいのに。去年はパリで阿波踊りの公演がありましたからね。パリっ子も一緒に踊って大好評だったそうです。今年は中止になったようですが。パリでできたなら、ヴェネツィアでもきっとできるって期待してるんです」
「ヴェネツィアの阿波踊り。私もぜひ見てみたい。カーニバルではみんなマスクをかぶっているけど、踊り子は編み笠がマスクの代わりだね」
「ゴンドラに乗って、水の上から踊りを見れたら…ヤットサーの声を聞けたら…最高なんですけどね」
「それは夢のようだ。ほんとになんとか実現してほしいですね」
「徳島だけだった阿波踊りが日本全国にこんなに広がっているんです。それどころかパリにまで。夢じゃないです、ヴェネツィアも」

 娘が仲間に呼ばれた。宿へ戻るらしい。
「どこに泊まってるんですか?」
「隣の草加市の旅館です。母は昔、草加市に住んで、市内にある大学に通っていたんだそうです」
 まちがいない。この踊り子は香代子の娘だ。
「ほな、さいなら」
 彼女は最後はまた徳島弁に戻って、仲間の方へ走っていった。その走る姿も香代子に似ていた。

*  *  *

「徳島の堀内さんから手紙が来てるわよ」
 妻から渡された封筒の差出人は堀内早苗だった。早苗? と首をかしげるほど、ポスター写真を送った日から月日がだいぶ過ぎていた。
「誰なの? そのひと」
「阿波踊りの踊り子さんだ。このあいだ南越谷に行ったとき写真をたくさん撮らせてもらった。そのなかでいちばん気に入った写真を引き延ばして送ったんだ」
「写真を撮りまくられるような人なら、若くてきれいな人ね?」
「まあな。周囲から際立っていたよ。そういう人って、遠くからでもわかるんだよな。ああ、すごいのが来た、って」
「一目惚れね」
「老いらくの恋かもしれない」
「徳島の踊り子なら前科があるんだから気をつけてね」
「ばか。冗談の分からんやつだなあ」

 封筒には便箋と、写真が一枚入っていた。
 写真には、アパーのトような建物とあじさいが群がり咲く狭い庭、そして麦わら帽子をかぶった中年の女性が写っていた。あじさいの青むらさきから赤むらさきへのグラデーションが目にも鮮やかだ。
 アパートの階段の昇り口に郵便箱があり、その郵便箱の上には標札がある。女性はその表札を指さし微笑んでいる。私は写真に目を近づけて、表札の文字と女性の顔に目をこらした。
 表札の字は「ハイツ草加松原」。香代子が住んでいたアパートだった。
 女性は香代子に間違いない。あの香代子が年を取った姿だ。この写真はどういう写真なのだろう。
 私は便箋を開いた。

 お礼の返事が遅くなってしまいすいません。すてきな写真をありがとうございました。額に入れて、家の玄関に飾っています。
 撮った写真をポスターにして送ってあげるから住所と名前を教えてほしいと言われたとき、なんだろうこの人? と最初は変に思いました。でも、他の人にもしていることだから気にしないでと言われて、物好きな人もいるんだなと、祭りのときはそれで収まったのですが、徳島に帰ってきてすこし時間がたつと、やっぱりなにか変だ、と思うようになりました。
 私は母のアルバムを思い出しました。あのアルバムをさがせばきっと手がかりがある。なにかがそう教えてくれた感じでした。母はイタリアへ行く前、どれだけ帰ってこれないか分からないからといって、かなり本格的に身辺整理をしました。それを私も手伝ったのですが、アルバムもたくさんありました。片付けは途中からほったらかしにして、私と母はアルバムを見ながら、母の過去を振り返りました。
 大学時代のアルバムに、母とたくさん一緒に写っている若い男性がいました。この人は誰だろう。よく見ていると、このあいだ南越谷で会った関根さん、あなただとわかりました。右の目尻にある小さなほくろが決め手でした。
 お会いした気がしたのは、母と一緒にこの写真を見たことがあったからだったのです。この人はだれ? 恋人ね? ときいても母は笑うばかりで答えてはくれませんでした。遠くを見る目をして、ただ、学生時代のいい思い出、と言うだけでした。
 ふたりは恋人だったのですね。

 写真の裏には短歌が書いてあります。その字は母の字です。小池光という人の歌だそうです。

   廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり

 南越谷で関根さんという人と会ったこと、その関根さんがアルバムの写真の中の人ではないかと、イタリアの母に電話で話しました。母は最初、認めたがりませんでしたが、私がいろいろと状況を並べて問いただすと、簡単に”自白”しました。そうすると、なにか楽しそうな声になって、「じゃあひとつお願いがあるわ」と母は言いました。「五年前のアルバムの中に、裏に短歌の書き込みがあるあじさいのアパートの写真があるから、それを関根さんに送ってちょうだい」
 それが同封した写真です。イタリアへ出発する一日前、東京に泊まった際に、なつかしさが募って草加松原ハイツに行ってみたそうです。短歌は「廃駅」となっていますが、その部分を「アパート」と読み替えて、その歌と写真を眺めて欲しいと関根さんへの手紙に書いてちょうだいと母から言われました。それから、これも書いてほしいと言われました。写真を撮ったのは、佐々木美智代さんという大学時代のお友達だそうです。
 それから、母には越谷で関根さんと私が一緒に写った写真を送りました。母も、いまの関根さんがどれだけおじさんになったかを知りたいでしょうから。

*  *  *

 次の年、あじさいの花が盛りになったころ、私は草加市に向かった。松原団地駅は獨協大学前に駅名が変わっていた。大学には立派な新棟がいくつか建っていた。私が住んでいたアパートはもうなかった。隣り近所のアパートの敷地を含めて大きなマンションになっていた。香代子が住んでいたハイツ草加松原はまだあった。当時、新築の物件だったから、まだまだ現役で務まりそうだ。
 蔦が絡んだ門扉を開けて敷地に入る。一階と二階に三部屋ずつ。二階へはトタン屋根のついた外階段を上がる。階段の上り口の壁に郵便ポストが据え付けてあった。二段目の一番左側が香代子の部屋のものだった。ハイツ草加松原の表札は新調されることなくあの頃のままだった。濃いむらさきのあじさいがポストの下から階段の上り口にかけて密生している。隣家の塀の上から陽光が射しこみ、あじさいの花の一部を周囲の花から浮き立たせている。
 昔もいまも、あじさいだらけだ。階段を昇りながら思った。靴音の響きが記憶をよびさます。一番奥の部屋の前に立って、「帰ってきたよ」とつぶやいた。
 部屋の中からは、食器を洗う音が聞こえる。この場所でなんども聞いた音だ。呼び鈴のボタンも昔のまま。このボタンを押して、「おれ、透」と大きな声を出せば、ドアが開いて中から香代子の顔がのぞいたのだ。私はボタンのすぐ近くまで右手の人差し指をもっていき、しばらくそのままにして、ゆっくり引っ込めた。
 階段を降り、あじさいの前で立ち止まった。こっちは青むらさき、あっちは赤むらさき…。生活とはぜんぜん関係のない花の色を語り合ったことがなつかしい。階段の昇り口に腰掛けて足もとを見つめた。あの頃もよくこんなスニーカーを履いていた。一緒に靴の安売り店に行っておそろいのものを買ったこともあった。たしか二三センチと二五・五センチ。こうして座っていれば、香代子がいつのまにか横に座っていそうな気がした。そしていつのまにか私も大学生に戻っている…。私は目をつむり、しばらく耳を澄まして、過去からの音を聞こうとした。
 二階の奥の方のドアが開いた。鍵が締められ、廊下を靴音が近づいてくる。私は立ち上がり、門の外へ出た。階段を降りる靴音が追いかけてくる。私は塀に体をあずけ、アパートの門扉から出てくる人を待った。誰も出てこなかった。靴音は私の空耳だったのかもしれない。
 二十二歳の関根透と堀内香代子はもういない。私は、幻でいいから一度だけ、透と香代子が腕を組んであじさいの庭を抜け、この道に出てくるところを見たいと思った。映画やテレビじゃあるまいし、そんなことが無理なのはもちろん分かっている。だが、それに近いことはできるだろう。香代子の娘の早苗が越谷踊りに来る限り、その踊りを見にゆき続けることだ。

   あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

 いつの日か、香代子が帰国して越谷を再び訪れ、学生時代のように阿波踊りを踊ることがあるかもしれない。娘と一緒に踊る香代子を私はどんな思いで見つめ、シャッターを切るのだろう。そして踊り子の親子を撮影する嘗ての恋人を、香代子はどんな思いで視界に収めるのだろう。私はめくるめく思いにとらわれた。死ぬまでになんとか、そんな日が来てほしい。旧松原団地駅に続く昔とあまり変わらない道を歩きながら、平均寿命までの残り年数を計算していた。二十五年か二十六年。私にめぐりくる夏、阿波踊りの夏は、多かれ少なかれその程度だ。


 引用詩歌

千万の下駄の歯音や阿波おどり        橋本夢道

手を上げて足を運べば阿波踊        岸風三楼

香具師の灯に踊子の汗彩めけり       上窪青樹

人波にもまれ憑かれてわれもゆく高提灯の浮き沈むなか   保科千代次

廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり  小池 光

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ  小野茂樹


〈注〉作品中、獨協大学の連が南越谷阿波踊りに参加したり、主人公が写真部に入部したりするなど獨協大学に関する記述がありますが、ストーリー構成上のフィクションであり、事実に基づくものではありません。
 なお、「松原団地」駅が、「獨協大学前」に駅名変更されたとの記述がありますが、実際に駅名が変更になるのは2017年春の予定と東武鉄道が発表しています。また、パリでの阿波踊り公演は2015年に行われ、2016年にも行われる予定でしたが、相次ぐテロ事件を受け中止が決まりました。

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