東京から歩いて帰ってきた僕は、そこを渡れば埼玉県に入る小さな橋のたもとで娘のあかりと待ち合わせていた。
「斉藤父さん、ただいま帰りました」
「おかえりなさい。すごいじゃない、ふざける余裕残ってるんだね。遠かった? 足はだいじょうぶ?」
「膝ががくがくだよ。足の裏もカチカチの板みたいだ。でも、ほんとにつながってたよ。お茶の水と草加はまちがいなく地続きだ」
「あたりまえでしょ。東京は島じゃないんだから」
「父さんにとって、お茶の水と草加は、点と点だったんだよ。その点と点を何十年も電車で運ばれていただけだったんだ。自分の足で歩いて、点と点がつながって線になった。冗談じゃないぞ、まじで感動してる」
「だったら岩手まで歩く計画も実行する?」
「するよ。一日三十キロ歩いて二週間と一日。雨の少ない五月にする。東京と岩手と、自分の足でつなげたいんだ。東京生活三十年の総決算だな。そしたら、きっと父さんは…」
「今の自分を脱皮できるのね。はいはい。何度も聞ききました」
「冷やかすなよ。けっこう…っていうか、かなり本気なんだから」
「それよりさ、お父さん、喉かわいたでしょ。ビール飲みたいんじゃない? 運動の後のビールはサイコー! だもんね」
「飲みたいさ、そりゃあ。あそこのスーパーに買いに行こう。あかりもコーラかサイダー、どうだ。乾杯しよう」
「じゃじゃ〜ん」
娘はビニール袋から缶ビールを取り出した。
「そこのスーパーで買ってきたの」
「サッポロ黒ラベルだ。しかも500t。よく冷えてる…、んっ、氷か」
「気が利くでしょ!」
娘は保冷用のクラッシュアイスを取り出して地面にばらばらとこぼした。
「いつのまに父さんの秘技を盗んだんだ」
「芸は盗め、ってね」
「ませたこと言うな、小六のくせに。あかりも父さんに似て、酒好きになるかもな」
「どっちかって言うと母さんに似たいけど、母さんもお酒好きだから、結果は同じことだね」
 缶のプルトップを引くとプシュっと音がして泡がすこしあふれたが、それがまた旨そうだった。喉を鳴らしてぐいぐい飲み、娘の顔を見て「プハー」と言ったら、娘もサイダーをごくごく飲んで「プハー」と繰り返した。
「父さん、おいしそう」
「うまいにきまってる。最高だよ。たくさん運動して汗かいて、おまけにビール買ってきてくれたのが最愛の娘だよ。こんなビール、うまくないわけがない。なっ、あかり」
僕は娘の頭をなでて、もう一度なでて、残りのビールを一気に飲み干した。
「500tなんてあっというまだな。もうないよ」
「あとはうちでね。でも飲み過ぎはいやだよ。父さん、くどくなるから。それと前もって言っておくけど、お風呂はもう一緒に入らないからね」
「そういうの興ざめっていうんですけど。でも、ありがと。おいしかった。給料日にほしいもの何か買ってあげるよ」
と言ったら、いままでのような給料日はもうないことを思い出した。


 橋の下を毛長川という小さな川が流れている、というか淀んでいる。けなががわと読むのだが、発音しにくいので、けながわと呼ぶ人もいる。川口市の東部が源流で、この橋のあたりでは埼玉県と東京都との境を東へ流れていて、足立区の花畑地区で綾瀬川に合流する。綾瀬川は河川の水質全国ワーストワンに選ばれることたびたびの悪名高い川だが、その支流となるこの毛長川も負けず劣らずの水質である。濃緑色の川面に波はなく、水底も見えず、捨てられた自転車のハンドル部分が、手を挙げて助けを乞う溺死寸前の人のように水面に突き出ている。その向こうに足立清掃場の赤と白の段だら縞の煙突がそびえていて、それは変哲のない風景の中でひときわ目立つのっぽでのっぺらぼうのピエロのようだ。僕はそれを指さして言った。
「あの煙突の下で、あかりは遊んだことがあります。さて、その遊びとは?」
「あそこはゴミ焼却場だよね。燃やせば熱が出る。熱は何かに使わないともったいない。まあ、お湯を沸かしますね。はぁい、答えは温水プール。正解でしょ」
「覚えていたのか。もう十年近く前だから忘れていると思ったけどな」
「ほんとはね、このあいだ車でこの橋を渡ったときに、母さんから同じ質問されたんだ。で、昔のこと教えてもらった」
 あかりは小学六年、十二歳だ。この僕たち夫婦が四十近くに授かった一粒種は、3940グラムで生まれたかなり大きい赤ん坊だったが、その後の発育もすこぶる良く、身長は平均より少し高めだけれど体重は標準をかなり上回っていた。おむつの取れた二歳頃からプールへ連れて行くようになったが、青いビキニの水着に散りばめられた小さなサクランボの模様が伸びきっていたし、腕や太もも、おなかなど、肌の出ているところはぱんぱんに張っていた。保育園でだいぶ馴らされたらしく、水に対する恐怖心はまったく見せず、しぶきを高く上げてバタ足をし、めちゃくちゃなフォームではあったけれどそれなりに腕を回してクロールもどきをしていたが、もちろん息継ぎなどできないから、立ち上がったときにハアハア息を吸ったり吐いたりしている顔が真っ赤だった。
 この場面だけでなく娘のいろいろな時期を思い出していると、生まれた日の朝、産院の保育器で眠っていた彼女のしわくちゃな顔がときどき閃くのに気付く。絵が閃く。これは、脳内スクリーンに定着している透かし絵に一瞬色が付いて絵柄が表れるといった感じだろうか。あかりの人生が始まり、僕が父に、妻が母になったという感動の強さ大きさが、この記憶を再生しやすい位置に定着させたのだろう。何度も何度も再生しているうちに、コンピューターモニターの画像焼き付きのような現象が起きているようでもある。この産院での娘の映像は、ときには保育器を上からのぞき込む僕自身の後頭部を含めたものになっているのだけれど、それは妻の母が撮ってくれた写真を繰り返し見たために本来の記憶が修正されてしまった結果だ。
 ところで、現実を写生したのは絵画が最初で、その後、カメラやビデオレコーダーが発明されて人物や景色を最初はモノクロで、後にカラーでも記録することができるようになってきたわけだが、素人が気軽にスナップ写真をとれるようになって、人生の場面場面の本来の記憶を、写真やビデオによって消失から守ったり修正したりできているのはここ五十年くらいのことである。写真が登場する前には絵画が人物や景色を記録する役割を担っていて、特殊な技能とよほどの暇と執念と経済的余裕があれば何か出来事があるにつけてスケッチ絵を残すことは可能だったかもしれないが、普通に暮らす人にとっては生活の記録をビジュアルな形で残すことはできなかったわけだから、そのころの人たちの記憶の保持と再現はいまとはまったく違っていたかもしれない。そもそも映像と言われてもピンとこなかったのではないか。語る、語りを聞く、文を書く、文を読む。このような方法でしか記憶は再現できず、他人と共有することもできなかったのだ。
 印象派の画家クロード・モネに『印象・日の出』という有名な絵がある。
――明るむ海面。小舟を漕いで出港する人間の小さなシルエット。刷毛で無造作に塗ったように空を赤橙色が覆う。小さな紅い太陽から光芒が海面を左右に揺れながら延び、小舟の近くに届いている。ほかにも大きな舟や別の小舟。輪郭が暗がりに溶け込んでいる。工場の煙突から黒い煙。すこし昇ってからたなびく。画布の中すべての描線が曖昧模糊としている――
 人の記憶の中の映像とはこの絵程度の写実性なのではないかと思う。僕の記憶の世界はこれより単純で、丸・楕円、三角・四角、水平・垂直・斜めの直線、簡単な変化しか持たない曲線、円錐・角錐や円柱・角柱、真球・歪球などを寄せ集めた抽象画のような感じ。まったく映像が浮かばず、会話の内容だけが保持されているときもある。それなのに、人に問われたり、映画や小説に触発されたりするとディテールを言葉で再現できるのは、映像が脳裡に写真のように投影されているのではなく、いま言ったような大ざっぱな構図と図形のぼやけた映像があって、サーチライトの光が当たると様々な部分部分に折りたたまれていたメモが次々に開いていくからではないだろうか。あるいは、スプレーで薬品を噴霧するとそれまで見えなかった文字が浮き出るような感じといったほうがいいだろうか。メモは文章ではなく単語で、曼荼羅図やマインドマップのように次々と多岐に、猛スピードで派生していく。自分や他人に向かって語るときに、単語と単語は文法でつながれ文章になる。「航空障害灯が赤く点滅する高層ビル群の間に浮かぶ花王石鹸のマークのような三日月」とか「脚を八の字形にして急斜面をスキーでくねくね滑り降りてくる青いヤッケとGパンを着た中学時代の兄」「北海道・本州・四国・九州それぞれの形をした日本列島を模した池があった小学校の裏庭に担任の稲辺先生が用務員のおじさんと立ってタバコを吸っていた」 文章化の途中で、一度は想起されたけれど文章に連結されずじまいだった単語はどこかをさまよい、なにか思い出し切れていない不満足感をもたらす。メモには、形や色、大きさ、遠近などの視覚的なことだけでなく、聴覚や嗅覚、触覚、味覚に訴える刺激も記録されている。うるさい、潮騒、くさい、香ばしい、痛い、ちくり、ボキッと、辛い、プチプチ、とろ〜り…。これに関連して既視感、デジャヴゥという心的現象について思いがめぐったのだけれど、この現象は、抽象画像の構図だけがあって、どこをどうサーチライトで照らしても単語のメモが見つからない記憶の一形態なのではないか。メモが見つかれば、場所や年代とか季節を特定できて、「いつか来たことがある」「前に見たなあ」という感慨は生まれないだろう。


※  ※  ※  ※

 縁石で車道と区切られた歩道とはいえ、橋の中ほどでビールを飲んでいる大人の男とコーラを飲んでいる小学生の女の子という組み合わせは珍しいのだろうか、脇を通り過ぎていった人たちは僕たちの視線の先に何があるのか気になるらしく振り返って僕らのほうと煙突のほうをそれぞれ見ていったけれど、プールの話をしているとは絶対に想像できなかっただろう。ましてや、娘の記憶でいっぱいで、それだけでなく記憶って何だ、どういうもんだなんてことをくだくだ考えている男の頭の中もそうだし、その男がきょう会社を辞めて都心部からここまで歩いてきたことは、神様以外にはわからないだろうと、神様を信じていないのに僕は思った。
 まだ五十になったばかりなのに、自分から志願したかたちで、きょう会社を辞めてきたのだ。ひと月前にオーナー社長から、僕が編集長を務める編集部の中から二人をリストラ候補として選んでくれと言われたのだが、人のいやがることは言えない気弱な性分なのと再就職のあてがあったので、二週間ほどしてから辞表を持って社長室に入った。社長は神妙な面持ちで封筒を受け取ったものの、それがリストラ候補者リストではなく辞表であることに気付くと、「どうしてだ」と、彼にしては非常に珍しいことに声を張り上げた。出版不況のさなか、つぶしのきかない編集者が再就職するのはかなり難しい。自分の部下を路頭に迷わせることはできない。自分が辞めます。そう言って社長を説得して二人をリストラするという案は撤回してもらった。それから残務整理をしていたら、あっという間にひと月がたった。
 この会社を辞めても生活に困らないからできた決断だった。住宅ローンは、ここ数年、超低金利が続いたのと、せっせと繰り上げ返済をしてきたので、あと数年で完済の見込みだし、退職金は千五百万にはなるはずで、いくら傾いた会社とはいえ積み立ててきたはずの退職金を踏み倒すことはないだろう。問題はこれから中学、高校、大学と進学していく娘の教育費だが、妻もまあまあの会社で正社員として働いていることだし、僕の新たな稼ぎにも目処は付いていた。故郷でコンビニエンスストアを二店経営している兄の元で働くのである。
 三歳年上の兄は、父が興した菓子製造・販売と食品・たばこ・日用品販売のいなかにしては大きな店に見切りをつけて、自宅近くの国道沿いでコンビニを始めた。父の菓子店は、洋品、履物、時計、文房具・本・雑誌、金物・食器、野菜・果物、酒、肉・総菜、米、自転車、理容、美容、寿司、そば、ラーメン…などほとんどの生活必需品やサービスが揃う、駅まで続く五百メートルほどの商店街の一方の起点に位置し、最盛期には「町内一番の売り上げだ」と父自身が豪語していた繁盛店だった。夏はかき氷やソフトクリーム、冬は大判焼き、ストーブにのせた盥の湯で温めた牛乳や缶コーヒー…店番をする母の働きも大きかった。けれどもいまこの商店街は、日本全体を覆う経済の波に押されシャッター商店街になりはてて、まともに営業しているのはクリーニング屋とラーメン兼飲み屋の隣家だけというありさまだ。
 兄の町内初のコンビニは大成功を収めた。そしてさらに、母の生家がある山の方面へ五キロほど離れた、市町村合併で市になる前の町役場があった場所の近くの交差点に二号店を開いた。その二号店に単身赴任するという一風変わったUターンを僕はすることにしたわけだが、永久Uターンではなく、ひと月に一度、三日連続の休暇をもらい草加帰りにあてるという計画だ。

※  ※  ※  ※

 三十年ちょっと前、お茶の水にある明治大学に入学した。第一志望の東北大はそのころ始まった共通一次試験の成績が五十点ほど足りなかったのであきらめて、私立の難関である早慶に狙いを変えた。結果は滑り止めに受けた明治だけが合格だった。というわけで、大学入学は喜びよりも悔しさのほうが大きかったのだが、それも刺激的な東京で暮らす喜びにそのうちかき消され、ありきたりだけれどかけがえのない学生時代だったとあの時も思い、強がりではなく今もそう思う。専攻した法律の知識はほとんど役に立っていないが、酒飲みを覚え、文学作品を片っ端から読み、論理的・体系的な考え方を学び、大恋愛のすえの大失恋を経験した。その後三十年の人生の基盤はあの時期に形成されたのはまちがいない。いまの生活の一番大事な基盤と言える妻と出会ったのもこの大学でだった。四国から出てきた田舎娘を都会生活一年を経てすこしは垢抜けた大学二年の僕が文化系のサークルに勧誘したのだけれど、恋人として交際したのは大学卒業後のことだ。
 要約してしまえば、たったこれだけの学生生活。その終盤に身のほど知らずの僕を待っていたのは、またしても高望みの果ての挫折だった。入学したときは法曹を志していたのにいつのまにかマスコミ志望になっていた僕は大新聞社、大出版社にことごとくはじかれた。すべて筆記試験で落ち、面接まで進めたのは大と中の間くらいの文芸出版と多少右傾ぎみの硬派で伝統ある出版社だけだった。それもそのはず、当時のマスコミ人気はすさまじく、競争率は優に百倍を超えていた。全戦全敗。そんな僕を拾ってくれたのが、児童文学系の書籍ですこしは名の売れたいまの会社なのだが、資本金一千万以下、社員およそ二十人、企業規模的には零細企業といっていいものだった。けれども編集の仕事をさせてもらえるなら、どんなに小さくてもかまわない。つぶれたらその時のこと。普通のサラリーマンになるためにわざわざ東京まで出てきたわけじゃない…そんなふうに若さ丸出しの考えで、帰ってこいという親の意見もまったく無視して入社を決めた。それから十五年で編集長になり、そのまま現在に至ったというわけだ。

※  ※  ※  ※

 社長に退職のあいさつをしにいくと、最後の慰留をしてくれたけれどそれはもう本気ではなく、三十年近く一緒に働いた男との別れにやや感傷的になっているだけのように見えた。おかげさまで長年、編集の仕事ができました。東京に出てきた甲斐がありました。そう言って、壁に懸けられた先代社長の写真に目礼して部屋を出た。編集部をあいさつして回り、最後に自分のデスクに戻って「さて、帰るか」と独りごちたら、みんなが立ち上がって拍手をしてくれたが、本心なのか儀礼なのかわからなかったし、「じゃあ、みんな頑張って。会社つぶすなよ。お世話になりました」と言うと、ご苦労様でしたという揃った声で送り出された。面倒見やつきあいの良い方ではなかったから期待はしていなかったけれど、花束や記念品なんか誰も用意していなかったし、記念撮影をしようと声をかけてくれたり、玄関まで見送りにきてくれたりする者もいなかった。僕が辞めなければお前たちの誰か二人だったんだ、身替わりになってやったのに…とむなしかった。少し歩いて編集部の窓を見上げたが、窓を開けて手を振ってくれている者はもちろんいなかった。
 これが三十年の結末。こんなざまで終わるなら、わざわざ東京へ出てくることはなかったじゃないか。地元の大学に入り、地元の会社に就職し、地元の誰かと知り合ったり、幼なじみと旧交を温めたり見合いをして結婚し、子どもをつくる。父と母にじじばばとして孫の世話を楽しませてあげ、自分の通った小中高校に通わせる。山紫水明の自然。川遊び、山遊び、スキー。子にとってもそちらの方が楽しかったかもしれない。なんで東京なんかに出て、暮らし続けたんだ。経験だから大学くらいはいいとして、大学を出たらさっさと戻ればよかった。ちくしょう。くそ。ばかやろう。と、罵詈雑言を心の中で繰ってみたけれど、押さえきれない怒りや悲壮感があるわけではなく、たださびしかった。

※  ※  ※  ※

 会社を出て十五分も歩くとお茶の水橋に着き、橋の中央あたりで欄干にもたれた。神田川、聖橋、御茶ノ水駅ホーム。ここから見る風景が僕にとっての東京の象徴なのだといつにもまして強く感じる。神田川でもっとも深い渓谷部分にかかるアーチ形の聖橋の下を、崖から出てきた地下鉄丸ノ内線の車両が時々通る。地下鉄なのにその部分だけ地下でなく地上というか水上で、谷の駿河台側の斜面に御茶ノ水駅の長いホームがあり、乗客が電車の到着を待っている。総武線と中央線、それぞれ黄色とオレンジ一色に塗りつぶされていた車両が、秋葉原方面と水道橋方面それぞれから入線してきたのはいつまでだったろうか。上野駅から緑色の山手線に乗って、秋葉原で黄色い電車に乗り換えお茶の水まで来て、ホームの反対側に来るオレンジ色の電車に乗ると、次が四谷、その次の駅が新宿だ。いなかから遊びに来た友達やなんかにそうやって説明したものだった。丸ノ内線も赤一色だったが、いまでは三線全部の車両がシルバーの地で、それぞれ黄色とオレンジ、赤のラインを横に流した姿に変わっている。
 思い出はいろいろな場所で想起されるが、僕の場合、この橋の欄干にもたれて聖橋と駅のホームを眺めているときが最高のシチュエーションで、なんどもなんども、それこそ雨の日も雪の日も、親友が死んだときも恋人に振られたときも、ここで思い出に耽ってきた。日中なら雨の日のほうがいいし、照明で明るいホームが帯状に暗みに浮かぶように見える夕暮れ以降が、眠っている記憶に対して刺激的だった。

@ A→A'
A A→(A'→A'')
B A→(A'→B)
C A→(A'→(A''→B))
D A→(B→A')

 Aが現時点の自分で、Bが他人、過去の自分をアポストロフィマーク一個、さらに一段過去の自分を同マーク二個をつけて、思い出し方を数式のように表現してみると、たとえば以上のようになる。これはほんの一例で、実際にはこのほかにCやD、E…と登場人物が増えてくるので想起の多様性には限界がない。@は自分自身の過去を思い出す単純な回想、Aは遠い過去を思い出していた比較的近い過去を思い出す回想、Bは過去の自分がBを思い出していたことを思い出す回想、CとDはちょっと複雑なので例を挙げると、
C A→(A'→(A''→B)) は、
「少女 B のバレエ発表会での踊り姿をその夜ベッドの中で中学生時代の A'' は思い出していた。そのことを高校生になった A' は橋の上で突然思い出し、もう彼女には会えないほど遠く離れてしまったことを悲しんだ。さらに後年、会社員になった A は同じ橋の上で、高校時代 A' の感情を思い出した」
EA→(B→A')は
「A'が松山千春の『旅立ち』を学園祭で歌っていたのを思い出すことがあるとBが喫茶店で語っていたのを、その喫茶店に後年やってきたAは思い出した」
となる。このように記憶というのは綿密に分析しだしたらきりがないほどの層をなしている。それはスナップ写真のポジフィルムをすこし間隔を置いて上下に重ねておき、そこに光が入射すると一番上のフィルムの絵柄だけでなく下層のフィルムの絵柄が二枚、三枚、四枚…と透けて見えるような感じだろうか。フィルムの上下の順番は必ずしも時間の順とは限らず、出来事の印象の強さの順番だったりするために、時間の感覚が揺らぐ気がしたり、夢の中にいるように感じたりもする。

※  ※  ※  ※

 東京にはしばらく来れない、実質撤退ということになると、最初にアパートを借りた街、中野区の最南端にある南台に無性に行きたくなったので、何日か前の仕事帰りに行ってきた。最寄り駅は京王線の笹塚で、始発新宿の次の駅だ。
 二十年ぶりに降りた駅のモール街は、構造こそ変わっていなかったが、店はかなり入れ替わっていた。片側二車線の大きな甲州街道を渡り商店街に入る。ここもほとんど店は変わっていたし、昔はなかったコンビニの派手な看板と明るすぎるほどの大きな窓が街の印象をだいぶ変えていた。天ぷら屋、おでん種屋、魚屋、電気屋などがそのままだった。水道通りという道に一度遮られるが、商店街は下り坂になってまだ続き、最後の店はよく食べに来たラーメン屋だった。店主は東大出身だという噂があり、面は細い縮れ麺で澄んだスープが減っていくと器の底に日本一という字が見えてきたことも思い出した。
 商店街までは渋谷区笹塚でそこを抜け住宅街に入ると中野区になり、アパートのあった場所はもうすぐだ。ここで学生生活が始まった。早慶を滑った屈辱を雪ぐため、司法試験に目標を定め学内の研究所にも入ったが、三年になるときには早々と挫折。その後は、岩手では有名な児童文学と地元歴史小説の作家だった母方の伯父にあこがれて作家を夢み、すぐには無理だからまず出版社に勤めて文章扱いを職業とし、仕事のあいまにこつこつと小説を書きながら文学賞を狙っていこう、という目標に転換したけれど、マスコミ入社試験は惨敗で、かろうじて弱小出版社に拾われた。貧しいなりに工夫を凝らして飯をつくり、安ウイスキーで友達と飲み明かし、小説を朝方まで読みふけり、金もないくせに女友達と長電話をし、フィルターに爪楊枝を刺してしけもくを吸い、隣の麻雀の音がうるさくて眠れず、階上の変な音にもんもんとし…そのような生活がまちがいなく続いたはずなのだが、懐かしい道筋を歩いているうちに、そんな生活が本当にあったのかと、過去が自分のものではないような気がしてきた。どきどきしながらアパートに近づく。たしか「桃の湯」という屋号だった銭湯はなくなっていたが、コインランドリーはあった。風呂は一日おき、洗濯は週に一度まとめてやっていた。角を曲がる。細い路地が三十メートル先の突き当たりまで伸び、街灯が二つ、三つ暗い空間を照らしていた。
 突き当たりにアパート泰山荘はあった。改装もされていなかった。一階の左隅が僕の部屋だった。のぞき窓のあるドアも昔のままだ。この小さな窓の向こうからいろんな人の顔を見た。あのころの彼女、その母親、サークルの呑助の先輩、三十を前に死んでしまった名古屋出身の親友、集金や勧誘に来た新聞屋、アパートの管理人、宗教活動家…。
 部屋には灯りがついていた。ノックをしたらあのころの僕が出てくるんじゃないかと思った。会いたい、学生時代の僕に。
 二階のどこかの部屋のドアが開く音がし、僕はあわててアパートを立ち去った。駅までの道の途中、それらしき人影を見るたび、自分やこの近所に住んでいた彼女があのころの年齢のまま歩いているような気がしてふと涙ぐみ、いい中年がしょうがねぇな、とつぶやいた。

※  ※  ※  ※

 橋の上でかなり時間がたって、妻に電話をかけた。
「まだお茶の水橋なんだ。いまから、出る。もうここに来ることがないかもしれないと思うと…」
「別れがたい、っていうわけか。そこは、斉藤先輩の指定席だもんね。この三十年の間でその橋の上にいた時間が一番長い人ってあなたかもよ」
「そうかもな。まだ、ここにいたいけど、時間的にリミットだな」
「じゃあ私が五分後に電話してあげるから、着信音が鳴ったら歩き出して!」
 やがて、それをきっかけにして歩き出したのだけれど、そのメロディーはヴィヴァルディの『四季』の春のテーマ ♪チャッチャッリラリラリラン ラリラン ラリラン…で、せめて涙の一粒二粒と思っていたこんな時には、まったくふさわしくなかった。
 湯島から秋葉原方面に向かい電気街を抜け、その部分では昭和通りと呼ばれる国道四号に入った。北上すれば草加があり、さらにその四百五十キロ先に故郷があるはずだが、やがて上野駅の駅舎が見えてきた。僕は強いて初めての上京の頃を思い出そうとして、ふだん電車に乗って買い物に来たり動物園や美術館に来たりした時にはおそらく日常的すぎて感じることのない感情がわき上がってくるのを待った。
 当時新幹線は開通していなかったので、岩手県南の北上駅から上野駅までは特急「やまびこ」で六時間もかかった。岩手─宮城─福島─栃木─埼玉、そして東京。岩手から埼玉までは都市部といなかの濃淡を繰り返しながらのひと続きであり、東京だけは別世界であるというイメージだった。埼玉の大宮駅を過ぎるといなか圏を完全に出て、川口の先の荒川を渡ると行政区分上の東京都で、赤羽─王子ときてほとんど住宅とビルの密集の風景になり、田端を過ぎて山手線や京浜東北線と平行して走る頃には、大都会・東京にいよいよ入ったと感じた。畑や田は一切なく、家並みが途切れず路地が狭く、高いビルが信じられないほど多く立っていて、駅と駅が近く、電車がすれ違う頻度が高く、どの電車も人がたくさん乗っている。この人口はなんなんだ? 正真正銘の別世界だった。特急電車からホームに降りるのが怖くなっていた。席に座ったまま岩手に折り返したいと本気で思ったものだった。
 正面玄関から上野駅構内に入り、吹き抜け空間のガラス張りの高い天井から降り注ぐ陽光を目を細めて自分の目に受けとめた。そうしていた時間は短かったはずだが、そのわずかな時間に受けとめていた光の束は、長い長い時間が経過したことを一瞬に納得させる啓示の光みたいな感じだった。
 思い入れのない入谷、三ノ輪は足早に過ぎ、隅田川にかかる千住大橋を渡り、北千住駅入口でひと休みして、国道四号=日光街道の北上を続けた。歩きながら東京で知り合った人をできるだけ思い出そうとしてみた。たくさんいたが名前が浮かぶだけで、ほとんど何も感慨はなかった。そんなもんなんだと落胆することなく平然と思い、そうであればこそ、娘の誕生と成長につながる一連がいちいちの喜怒哀楽の感情とともに深く記憶に刻まれているのがすごいことなのだと思った。たとえば妻との出会い、結婚。娘の保育園や小学校の入学式と卒業式。運動会やお遊戯会。初めての自転車、一輪車、キックボード。階段から落ちた大けが、カゼやおたふく、その他いろんな病気やけがのために車でかけつけた病院のソファと妻の顔と、そして僕自身の膝の上に握りしめた両こぶし… これらは、抽象画以上・写真未満の具体性をもった鮮明な記憶だ。
 千住新橋は大きな橋で、橋詰にいたるまでの坂道も長く、さらに橋詰から中央部までも合わせるとしめて五分くらいはかかった。荒川がゆったりと流れていて岸辺も広く、両岸にグランドや散歩道、芝地が整備してあり、電車から見るたびなぜこんなにハイセンスな建物なのだろうと思う東京拘置所が小さく見えた。大きな川を見ると、どうしても故郷の北上川や妻の故郷の徳島・吉野川を思ってしまうのだが、故郷の川が忘れがたいのはなぜだろう。魚釣りや魚突きをして遊んだとか、そこを舟で渡って通学したとか特別なことをしたわけではなくただ眺めていただけでも特別な存在になってしまう川と橋…。たいしたもんだなと思ったけれど、荒川にかかるこの橋に特別な思いはまったくない。
 橋を渡り終え来た道を振り返ると、東京はもうとっくに終わっていたという気がした。千住から始まった足立区はまだ続くので「東京都」が終わったわけではないけれど、僕はいつのまにか東京の仮想境界線の外側にいた。
 草加に近づくにつれて、空き地が増えビルが低くなり横断歩道が減り路傍の植栽の手入れが雑になってきて雑草が目に付く。東京最北の街、竹の塚の駅入口を過ぎ、都内最後の歩道橋に昇り東京方面を振り返った。あるのは、二車線のひっきりなしの交通、ただそれだけだと感じ、四号線に入った秋葉原からここまで、なんの断絶もなかった。僕はいつ東京の仮想境界線を越えたのだろう。千住新橋のもっと前、たぶん上野駅の構内かお茶の水橋だったと思うけれど、地理だけで区切ろうとするのが無理なのであって、たぶん個人史の要素もそうとう深く関与しているのだろう。青春とは、人生のある一時期の名称であるとともに、それが展開された場所の名称でもあるから、不安と焦燥、希望、挫折、絶望といった青春の感情の起伏の大きかった舞台が東京といえるのかもしれず、だからお茶の水、上野、新宿、笹塚・南台は僕にとって、銀座、赤坂、日本橋、六本木などよりも圧倒的に東京なのだ。
 国道四号はバイパスと旧道に別れた。この大小二つの道は、草加の北の越谷で再び合流する。僕は旧道に入り、携帯電話をポケットから取りだし時間を見て、約束の時間を十分くらい過ぎたのを確認すると電話をかけた。百メートルほど先に水神橋があり、女の子がひとり橋のたもとに立っている。娘が電話に出た。僕は手を振った。
「あかり、父さんが見えるか」
「見える!見えるよ。父さん、遅い。十分も遅刻だよ。罰金!サイゼリアのカルボナーラね」
電話をつなげたまま、僕は娘のいる水神橋に近づいていった。

※  ※  ※  ※

 毛長川沿いの道は大人の胸の高さあたりまでの緑色の金網が川への立ち入りを防いでいて、濁った水面から網にかけての急斜面にはススキが伸び放題だった。すこし行くと谷塚葬祭場への裏からの入口があった。以前、会社の先輩の母親の通夜に、竹の塚に住んでいる友達と来たときはもっと古い建物で、なんだか寒々しく清潔感もなかった。故人は平均寿命をはるかに越え九十五歳の大往生だったから、泣いている人はいなくて、お清めの席は賑やかで笑い声さえ満ちていた。僕と友達はその雰囲気にほだされて小一時間も居座ってしまったのだが、むかし伯父の葬儀の後のお清めで近所のクリーニング屋と寿司屋のおやじがしゃべっていた会話を思い出していた。前段も後段も忘れ、覚えているのは、
「死ぬまで生ぎるべ」
「んだんだ、死ぬまで生ぎれば十分だ」
という短いやりとりだ。僕はそれ以来、人の生死に関わる場面に立ち会うと、いつもあの二人の会話を思い出す。
 斎場を出ると僕はその会話を友達に教えたが、友達は東北弁で言うとなんだか実感があるなぁと見当はずれな答えをして、ずっと考えていたらしいことを言った。
「お前も俺も、たぶんここで焼かれるんだろうな」
「そうか、そうなるか。同じ場所で焼かれる者同士なんだな、おれたちは」
 そんな話をしたらしんみりして、最寄り駅に行く途中にあった居酒屋に入って飲み直していたらひどく酔ってしまって、次の日は夕方まで頭痛がひどかった。

 改装された斎場をみて娘は、「この建物はなに?」と僕の手をとって言った。
「火葬場だよ。お通夜とか葬式をするところ。徳島のじいちゃんが死んだとき、火葬場にいっただろう。あそこと同じ」
「そうか、やっぱり。コミセンでもないし、学校でもないし、老人ホームとか病院とか、そういうところかなって感じもしたけど、ちょっと違うかなって」
「おじいちゃん、骨だけになって… その骨を小さな壺に入れて、おばあちゃんが抱いていただろ」
「ここで火葬されるのはどこの人?」
「東京でも埼玉でも、このへんの人さ」
「じゃあ、うちでも誰かが死んだら…」
「そうだよ、ここさ。父さんも母さんもいつかは死ぬけど、でも、あかりが大きくなって、結婚して子どもを生んで、おじいちゃん、おばあちゃんになるまでは、父さんも母さんも死なないから」
「じゃあ、ずっと先だ」
「そう、ずっとずぅっと先。心配するな」
「こんなところ、ずっと来たくないな」
「そういうわけにもいかないな。人は誰でもいつかは… それは分かるだろう?」
「うん…」
 娘があまりに深くうなずいたので、人は必ず死ぬ、親も例外ではない、そういうことを教えるのは早すぎただろうか、と僕はすこし反省し、この斎場の敷地に入って以来ずっと、脳梗塞の発作によって重い認知症になってしまった七十七歳の父を考えていたことに気付いた。
 お見舞いのため実家に帰ったとき、父が僕を二番目の息子と認識しているかどうか僕には分からなかった。一度も名前を呼ばれることはなかったし、目を合わせようともしていなかった。兄や母も自分が何者と思われているか確信が持てないと言っていたが、もうほとんどしゃべることはできないから確かめようもない。父は三歳下の弟と、息子の嫁、それぞれ僕にとっては叔父と義姉の名前だけは呼ぶらしい。弟の名前を呼ぶときは、子ども時代に戻り子どもの弟に呼びかけているようだという。
 生かじりした知識によれば、重篤な認知症患者は青少年以降の記憶を失い、幼年時に帰るらしい。では僕ら兄弟の子ども時代の記憶はもう父の脳によみがえることはないのだろうか。僕を育てた記憶がよみがえらないのなら、いま目の前にいる僕は父にとって何者でもないはずだった。父との思い出は多くないけれど、菓子工場での白衣・白帽姿、にんにく醤油で鰹の刺身を食べながら酒を飲んでいた機嫌の良い顔、近所のスキー場でプルークボーゲンを教えてくれ、その後にラーメンを食べさせてくれたこと、焼肉のタレを自前で作ったり、インスタントラーメンを本格的なタンメンに仕立て上げたりしていたこと…などのシーンが代表的で、そのなかでも菓子工場での白衣姿が僕にとっての父の象徴的な記憶だ。
 兄に新幹線駅まで送ってもらう道すがら、父の生家である本家の墓に寄って、父の病状が悪化しないよう兄弟ふたりで祈った。この墓には(僕を基準にして言えば)祖父母とその直系、つまり夭逝した伯父ふたり、家督を継いだ伯父夫婦、その娘である従姉の旦那さんが眠っている。一族の墓地にはそのほかに一つの墓石が立っていて、それは二番目の伯父と高二で死んだ従兄の墓だ。あと三つ墓石を立てられるように土地を三分してあり、それは父の家族、叔父二人の家族の分で、本家の伯父が生前に用意したものだと、昔兄から聞いた。
「次は父ちゃんだべな」兄はやがて墓石の立つべき場所を見て言った。「そして母ちゃん、俺…」
「んだな、そういう順番だべな。俺はずっと向こうの埼玉のどっかだ。浅草あだりの寺の墓マンションがもしれね」

 東京に出て一家を構えた僕は、谷塚斎場で焼かれ、地価の安い埼玉県か近隣の県の墓地に葬られるだろう。なんの縁もない土地に永遠に眠ってしまうというわけで、離婚しない限りは妻も同じことだ。そのとき初めて、岩手県民ではなくなるような気がするが、かといって、埼玉県民でもなかろうし、死んでしまったらそんなことはどうでもいい。
 祭場では、二家族の通夜が行われるらしく、仕出し屋のバンから次々に料理が運び込まれている。あかりはもう帰りたいと言った。死んだ人がいる場所は怖いのだろう。明るい性格の母に早く会って、へんなことは忘れさせてもらいたいと思っているにちがいない。
「お母さんに電話して車で迎えに来てもらうか? 歩くとまだ三十分はかかる」
「いいよ。きょうは父さんにつきあう」
「そうか。いろいろ話したいこともあるんだ」
「いろいろって?」
「あかりが生まれてからいままでのこと」
「そんなのビデオで何回も見たじゃない」
「見るのと、お話を聞くのではちがうんだよ。ビデオじゃあその時なにを思っていたかがわからない」
「いくつくらいのときの話?」
「あっ待てよ。やっぱりやめた。あかりが生まれる前、父さんと母さんが出会った頃の話にしよう。お母さんにはそういう話を聞いたことあるか?」
「たぶん、ないよ。結婚式のビデオは見たけど。その前か…」
 僕は問わず語りを始めた。
――大学一年。十八歳だ。兄ちゃん…ひかりのおじちゃんだよ…兄ちゃんが住んでたアパートに転がり込んでふたりで暮らし始めたのが父さんの東京生活の始まりです。半年くらいすると兄ちゃんが菓子作りの修行に大阪へ行ったので、アパートに父さん一人が住むことになった。夢の一人暮らし、ついに実現、って感じでうれしかったなぁ。全然さびしくなかった。まじめに自炊したぞ。ガスコンロひとつだけだったからおかずはいつも一品。カレーなんかつくると、二、三日そればっかりだった。アパートには風呂がなかった。だから「銭湯」に行った。スーパー銭湯じゃないぞ。ただの銭湯。でも、岩手のばあちゃんからの仕送りだけじゃお金が足りなかったから、毎日は行けなかった。キッチンの流しで髪だけ洗ったり、ぬれタオルでからだを拭いたりしたんだ――
「そのころお母さんは?」
「まだ出会ってない。予備校で勉強してたはずだ。母さんが父さんの前に現れたのは、父さんが大学二年になってからなんだ。クラブやサークルに新入生を誘うイベントがあって、そのとき父さんが母さんに声をかけた」
「結婚したのは三十一歳のときだったよね。じゃあ、十年以上も恋人だったの? どうしてもっと早く結婚しなかったの」
「そうじゃないんだ。学生時代はどっちも別の人とつきあってた。ただのいい先輩と後輩の関係だった。でも、会社員になってからOB会で再会して、それからつきあい始めたんだ。それが三十歳」
「OB会がなかったら私はいなかった…」
「そんなことないさ、別の方法でどこかで出会ってたと思うよ。あかりが生まれてこなかったなんて絶対にあり得ない」
「お母さん、高齢出産だったって言ってた。ずっと子どもができなかったんだね」
「ううん、ちがうんだ。実はあかりの兄さんか姉さんのどちらかになるはずだった子がいたんだ。あかりが生まれる五年くらい前、お母さんのおなかのなかで死んじゃったんだ」
「それって、流産? ほんとうに」
 僕がうなずくと、娘はしばらく黙って歩いていたけれど、
「お姉さんだったんじゃない。だってわたし、いつもお姉さんがほしいなって思ってたんだもん」と言った。
「そうかもな。でも女の子ふたりだったら、いまごろは父さんだけ男で、三人から仲間はずれにされていたかもな」
「会いたかったなぁ。五歳上ってことは、もし無事に生まれてたら、いま高校生だね」
 斎場から旧四号線に戻り、北上をしばらく続けてせんべい屋の角を右に曲がった。このさき三分くらい行って蕎麦屋の角を左に入るとわが家はもうすぐだ。
「父さんはきょうで東京の仕事は引退。もうすこししたら、おじちゃんのところで働く」
「どのくらい行ってる?」
「十年ぐらいは頑張らないといけないと思うけど」
「夏休みとか冬休みは、わたしが遊びに行くよ」
「うん。だと、うれしい。でも中学生や高校生になれば、別に父さんに会いたいなんて思わなくなるよ」
「父さんに会うっていうか…わたし、岩手が好きだから。魚釣ったり川遊びしたいし、スキーも大好きだもん。それにおじちゃん、おばちゃんを手伝ってコンビニのアルバイトしてみたいし」

※  ※  ※  ※

 蕎麦屋の角にくると、甘いそばつゆの匂いがした。迎えに出てきていた妻が娘と手をつないで先を歩いていく。うす藍色の澄んだ空気のなか、大がらな妻の肩の高さまで背が伸びた娘の頭の向こうで、町内会長さんちのビニールハウスが光を反射していてまぶしかった。妻と娘のその後ろ姿がことし最高の絵≠ニいう付箋をつけて、いま記憶に照射されているというリアルな感じがあり、その新しい映像にかき消されていくのがお茶の水橋からの眺めであることにも気付いた。なんともいえない幸福感が満ちてきて、ふたりに追いつこうと歩を早めたら、娘が振り返り、「だるまさんが転んだ!」と元気に言ったので、僕は変てこな姿勢で止まった。
 蛙の鳴き声が聞こえてくる。ビニールハウスの隣には、これも会長さんちのものだが田んぼが一枚広がっていて、そこで鳴いている蛙たちだ。
「父さん、だいぶ増えてきたよ。日曜日、蛙釣りしよう。このあいだ買った釣り竿と毛針、出しておいてちょうだいね」娘はそう言って、妻と一緒にわが家のほうへ曲がっていった。
 このけっこう奮発した家は僕と妻の持ち家ではあるけれど実家ではなく、実家と呼ぶようになるのは娘のあかりだけだ。十五年くらい先には、嫁に行っているかもしれないし、婿を取って僕たちと同居しているかもしれないけれど、どちらにしても、この実家に「ただいま」と言って帰り着くとき、何人かの子どもを連れているあかりであってほしいと、手をつないだ妻と娘を見ながら思った。そして、子どもたちの思い出をたくさん作り、子どもたちには母の思い出をいやというほど与えてあげてほしい。僕は切実に、とても切実にそう願っていたのだけれど、そのとき脳裡には何かがちらちらしはじめていた。それはきっと、生まれた日のあかりのまだ目をあけないしわくちゃな顔だろう、と僕はいつものように思った。

きょう お茶の水橋から

              斉藤光悦
 
画:岡本祐一


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