歌集歌書を読む

古谷智子『デルタ・シティー』(本阿弥書店)
 歌集名には著者の生地である広島を重ねたという。
広島はデルタ・シティーかうら若き学徒の父の視界あかるむ
広島は七つの河川に挟まれた肥沃な三角州に広がった都市で、それゆえに多くの人が住み着き発展したゆえに、戦時の標的となり原子爆弾が投下された。水利がよいため冷却水を大量に必要とする原子力発電所もデルタ地帯に多く造られる。チェルノブイリも福島第一原発もデルタ地区だという。この歌集は、この「原子力」のもたらした災禍と、生地広島、そして広島で被爆した父、この三つが主要な題材となっている。古谷の第一歌集あたりの事柄の知的把握を基盤とする抒情というスタンス、形而上的世界への関心の強さはそれほど強くは表れてはおらず、写実性、具体性の奥に異界を詩的に表現するといった作風が心に残った。そしてなにより、娘の父としての私は、娘からかように愛されて詠われた著者の父親をうらやましく思ったことであり、涙ぐましかった。
なにものにもあらざりし父になにものにもあらざる吾が香たてまつる
亡き父にみせたき桜いな父がみせゐる桜か散り初めにけり
被爆地をのがれたる子を「菌」と呼ぶたつた一つのこの被爆国
きのこ雲消えしが不可視の妖雲の残像しんとおほふ列島
夕映えのこゑはしづかに充ちあふれはるかな死者をまた呼びもどす

三井修『海泡石』(砂子屋書房)
 私が第一歌集を出したのと同じ年に同じ雁書簡から三井修も『砂の詩学』という初めての歌集を上梓した。手元にはその歌集があるが、どのようにして入手したのか記憶はない。先年亡くなった中川菊司という歌人の三井物産における後輩が三井修で、「商社マンと短歌」という評論でふたりの作品をたくさん引用させてもらったことは記憶にいまも残っている。中東地域に関わる歌が印象的な歌集だった。
「歌詠みに砂漠は合わぬ」簡潔に書かれし文に一日こだわる
 その歌人の第十歌集である。二番目から九番目までの歌集を私は知らないが、三十年を経てだいぶ作風が変わったように思った。
ちちのみの父の形見ぞ飴色のパイプはトルコの海泡石で
 歌集名はこの歌から採られた。長く空き家になっていた能登の実家を取り壊すためたびたび能登へ帰ったとのことで能登やその周辺の作品が多い。人の評によれば、三井はもともと自分の身内のことなどはあまり詠まない歌人のようだが、この歌集では家族を詠んだ歌が数多い。生家をたたんだことで故郷への思いが募り、また故郷と繋がる亡き人の思い出があふれてきたのだろか。
掌(てのひら)につね胡桃の実鳴らしいし晩年の父を思う春の夜
あの胡桃いずこに行きしや飴色の小さき脳(なずき)のごときあの実は
辛(つら)き時飲む故郷の塩サイダー送られてこず叔母逝きてより
遺影なる長兄仏間に残すまま戸を鎖(さ)して出る午後の日差しへ
二カ月の後には雪の下ならん父母の墓石に深く頭(ず)を垂る
わが族(うから)散り散りとなり残りたる敷地に影を落とすものなし
 最も印象に残った一首を最後に。
時間とは光か 幼き日の夏陽、今日我が座す仏間の暗さ

竹重百合枝歌集『こぼれまゆ』(ながらみ書房)
 上州富岡に生まれ暮らし、養蚕から糸紡ぎ、染色、織りまで一貫した手作業を長いあいだ生業とした。本書の後書には「私の生涯に一冊の歌集でございます」とある。なにか口承の物語をこれから読み聞かせられるような気分になる。事実、養蚕の現場、その家族の実情をまったく知らない私にとっては、それは伝説というか神話めいた歌物語を読むようだった。物語めくといっても散文調には陥らず、きりっとした文語定型の美しい歌が居並んでいる。ただ、どうしても専門的な描写が必要となるゆえに、号数落ちの詞書や説明文が多用されているのは致し方ないことだろう。
創ありてかがやくいのちこぼれまゆこの星に須臾のひかりつむがむ
歌集名ともなり、序歌として据えられた一首。「こぼれまゆ」とは作者自身が名づけた屑繭のこと。規格外の繭にも、一匹一匹精一杯に糸を吐き作ったもので、生命の輝きが宿っていると感得している。
蚕の眠り妨げぬやう家族(うから)らはひそひそ話す青葉の昼を
みづからを灼きつくすごと首振りて夜すがら絲の炎吐ける蚕
黒く光る祖母の座繰(ざぐ)り器くるくるとわが絲挽けばときは輪廻す
蕾みつ桜の枝を挽き伐りて染めにし絲に永遠の花咲け
もちろん養蚕や染めの歌ばかりではない。
子午線ゆ注がるる乳を享くるごと空仰ぐとき人は口開く
夕映えの橋渡るときうつせ身はふうはりと浮きて天に帰るやう
織り終へてまた絲紡ぐ繰りごとの果てに透きゆくいのちなるべし
野辺にきて草の竪琴聞きてをりいのちのはじめにききしその音
 作者は前登志夫の弟子であり、生涯一冊の歌集にはなにがなんでも、前の処女歌集である『子午線の繭』にある「子午線」という言葉を入れたかったにちがいない。

雁部貞夫歌集『子規の旅行鞄』(砂子屋書房)
 子規や節、茂吉も文明も旅することで歌の世界を豊かにした。子規といえば病床というイメージが強いが、実はそうではなく若い頃は旅を好み、「行脚」と称して諸方へ長途の旅を試みているという。長塚節は子規よりもスケールの大きな旅を生涯にわたり繰り返した。作者はそんな子規およびアララギ系の先輩歌人の航跡をなぞるように「実景」を求めて日本の辺境の旅を繰り返してきた。当然、羈旅歌が多い。
防雪林切り拓きたる跡も見つ「新青森」の駅舎の近く
赤名峠越えて入りゆく石見の国朱あざやかに石州瓦
久々に山の頂に吾は立つ天の香具山低山(ひくやま)なれど
朝より雪ふりつづく北会津辛夷のの花芽すでにふくらむ
ヒマラヤの本祝はむと行く祇園「うなぎの寝床」の奥へ奥へと
 そしてこの歌集は、歌人を中心に友人や芸術家など人名が次から次と登場する。一巻最後の歌を引く。
息絶えし子規を抱へて母は呼ぶ「さあ、もいつぺん痛いというてお見


山科真白歌集『鏡像』 (ながらみ書房)
 どんな作品を書いているのかは知りようもないが、作歌の眉村卓氏に師事し小説も書くという作者の、文学的香気に満ちた歌集である。短歌と小説にともに取り組むという点で、かつての小生と同じであり、それゆえに相通じるものが濃厚に感じられる。ドストエフスキーやバルザック、ランボー、ボードレールなどの名前も出てきて、わくわくしながらページをめくった。
 属目詠、自然詠の類はすくなく、西洋文学などに傾倒した、あるいは今している痕跡を感じさせる語彙やイメージを駆使し、想像の翼を羽ばたかせているといった印象を受ける。とはいえ、難解な文学用語や到底附いていけない比喩を氾濫させるというのではなく、受け入れやすい文学的ムードなのである。文学のモチーフも多いが、著者の興味は写真、音楽、美術など多方面に向いている。西洋や中国などの旅行詠も多く、この秀歌も多い。
夢の戸を開ければ美しき夜のなかに孔雀が羽根をひろげゆくなり
一列に彼岸花咲く田のふちで夢は極まり果てむとするも
水の都(と)を描いたイギリス画家の絵を小路の奥の画廊で買ひて
スタヴローギンの中にゐる吾そしてまた吾の中にゐるスタヴローギン。怖い。
鏡像にいつはりなきや吾の奥の永久(とは)に触れよとかひなをお伸ばす
在りし日の詩人ふたりの切られたる脚が時計の針になる夢
ダリの刻 だらりと枝にかけられて乾かしてゐるわたしの時計
 引用最後はぐっと心をつかまれ涙ぐんだ歌。
あの世にて「家を作つて待つてゐる」と父は言ひたり死にたる前に


千葉聡『90秒の別世界 短歌のとなりの物語』           (立東舎)
 九十秒くらいで読めるショートショートの小説とその最後に添えられた短歌一首。これが百セット。肩肘はらず楽しみながら読める。実際に時間を計ってみたが九十秒くらいで読み切れる。通勤通学や家事の隙間時間にうってつけの本だ。人生とは、死とは、みたいな重いテーマを重々しくつづる内容や文体ではない。散文(小説)が展開する物語と、短歌が表現する世界観のマリアージュといったところ。ショートショートを要約するのは至難なので、作品タイトルと歌一首の組み合わせで紹介する。
「時をかける先祖」
蒼穹(おほぞら)は蜜(みつ)かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶  (岡井隆)
「歌の翼」
人はなぜこいねがうのかソプラノが空の芯へと芯へとのぼる(三枝昂之)
「桜の夜」
歩きつつふりかえりつつ見る桜こうしてみれば他人の桜  (沖ななも)


『水中翼船炎上中』穂村弘(講談社)
 新刊ではないがまだこの欄では取り上げられていなかったのと、著者のもう一つの著作が最近出版されたので、併せて紹介することにした。まずは、歌集『水中翼船炎上中』。昨年、若山牧水賞を受賞している著者の第四歌集である。短歌研究賞を受賞した連作「楽しい一日」を含む。もっと歌集を出していると思っていたが十七年ぶりだという。ゆえに、数年おきに歌集を出し続ける歌人とは違い、歌集の構成、歌の改稿には苦心惨憺があったようだ。私の勝手な想像としては、歌集の出し方についての歌壇への問題提起とか大げさなことではなく、還暦まであと数年という年齢になった著者、空白の十七年間を含め、人生を振り返ろう、ここでこの先の歌集がもし出なかったとしても後悔せぬように編集しようという意図があったのではないか。
 歌集は昭和時代の幼少期と青春期を回顧しつつ、現代を批評する内容。作者の生まれは1962年で私と同じ。ちなみに俵万智なんかもそうである。集中に取り上げられる歌の素材は、社会的事象、生活様式みたいなのは共通なので共感しやすい。ただし、世代を異にする読者にはどう捉えられるだろうか。
食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕
遠足のおにぎりここで食べようかあっちがいいか 吹いている風
おみやげの永久磁石をひとつずつもらって帰る工場見学
ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検
 作者はこれらの歌を現在形で詠んでいる。「過去を振り返っての歌ではなく、いま現在進行形であるように時制を選ぶ」と小池光が評しているように、年とった作者が訳知り顔で遠い過去の自分の感情を解釈しているのではないのだ。これが新しいし、これはとてもむつかしい。やってみればすぐに分かる。ひとつひとつ子供でもわかりそうな言葉を使っている。天性のセンスのなせる業だろう。


『短歌ください 双子でも片方は泣く夜もある篇』穂村弘
(KADOKAWA)
 文芸誌「ダ・ヴィンチ」で連載中の「短歌ください」の単行本第四弾。テーマに沿った投稿短歌を穂村弘が選歌し批評する。優れた批評者、時代を代表する作家のもとには、秀逸な歌が集まってくるようだ。これらの作品を読んでいるだけで、時代の空気、雰囲気を感受できる。
母を見て未来の私に出会うとき私を見つめて若返る母
目覚めたら君が住んでいる街にいる夜行バスって瞬きみたい
七年の東京暮らしが終わりゆく中巻だけがある『細雪』
「鵜が吐いた鮎を食べた」の記事にすぐいいね!をくれた初恋の人
きみはあの頃だけぼくの妻だった夕暮れ砂のご飯よそって



石川恭子歌集『Foeever』
 『黄葉の森』に続く著者の第二十二歌集。二〇一三年から二〇一六年に至るまでの七四五首が収められている。まず「第二十二」という歴史の重さに感嘆する。たゆまずに営々と歌を詠み続けてこられたことの証左である。歌とともに人生を歩むその姿勢に敬意がこみあげてくる。
 著者は人、季節ごとの草花など、生きとし生けるものと自分との交感を見逃さない。そしてそれを、洗練された上手の手で言葉に掬い取る。一刻一刻を惜しむように丁寧に。それらの表現は、知性というフィルターを通してにじみ出てくるもので、けっして押しつけがましくない芳醇な香りをかぐような感じである。語彙の豊かさ、文語遣いなども含めた表現の熟達など、最初から最後まで緩みのない作品に満ちた歌集である。
  カーヴする道に広窓光りゐしこの町の紳士服の老舗もあらず
ここに立てば若き夫幼き吾子の声われの一生(ひとよ)のたまゆらの日々
須臾にして過ぎむいのちと思ほゆれ黄葉は今日まなかひに燃ゆ
晩夏光やがて寂しくなりゆかむ百日紅大木咲きしづもりぬ
西行もかくありけむか吉野葛熱き葛湯を掌(たなごころ)にす
 巻後半には、小学生の作者に美しい弁当箱を誂えてくれた亡き父母への思いを詠んだ「弁当箱」など二つの長歌と反歌も収められている。



『木俣修のうた百首鑑賞』外塚喬
地平の果もわが佇つ丘もさばかるるもののごと鎮み冬の落日
 どういう機会だったか忘れたが、木俣修の歌集『冬暦』のこの一首を昨年半ばに読んでから、分厚い全集を買い込み読み続けている。木俣修といえば北原白秋門下で、宮柊二とともにその高名を知られる。形成社を結び、歌誌「形成」を創刊。『昭和短歌史』をはじめとする研究書によって学者としての評価も高い。論作ともにまさに短歌界の一大山脈であり、だれかのガイダンスなしには登り口にたどり着けないような存在である。
 外塚喬は木俣修の薫陶を受けた門人であり、このガイダンス役を平易な語り口で務めてくれている。外塚はあとがきで、「木俣は、短歌界においては独自の世界観をもっていたばかりに、誤解されていたところがあった。作品よりも、学究の徒としての評価が高かったように思えてならない」としたうえで、「木俣の薫陶を受けた一人として、何としても全作品を読み直して、私なりの木俣修像を描き出すことができたらと思った」と書く。
 冒頭の歌のほかに百首の中に取り上げられた歌から二首。
きびしかる流転なりしかうつしみは生きてことしの秋に会ひたり
消すなかれ消ゆるなかれとなほ燃ゆる胸の炎(ひ)を思ふ歳の旦(あした)に



飯田彩乃歌集「リヴァーサイド』
 2016年歌壇賞受賞、「未来」所属の歌人の第一歌集。まずは心にとまった歌をいくつか引く。
水平線つまびけば鳴るといふ海を見るため昏き階(きざはし)のぼる
睡りつつゆけばかなしいとほい場所がなんだか近くなつてしまつて
さむざむと宇宙をめぐりゆくときにこの星は海をうすく纏つて
デスクトップ背景を海辺に変へて波打ちぎはにファイルを置けり
この星の破片をあなたは手に取つていま水切りの体勢に入る
 独自の詩的イメージが縦横無尽に展開されている感を受ける。いま掲出した歌は比較的、私にとって共感しやすい歌である。集中にはもっともっと詩的で観念的な歌も数多い。実景の写生だけを読みの拠り所にしていると、なかなかついていけない歌集と言えるかもしれないが、美しく理知的で詩的なイメージに満ちた魅力ある歌集である。解説で東直子さんが、「短歌の世界の若者たちが新たな美意識の作品を作っている。飯田彩乃さんはその代表的な歌人の一人として、独自の感覚と現代風俗の間で言葉を極め続けている」と最大級の賛辞を送っている。
飛ぶ鳥の影を自転車で轢きしのち見あげる空の比類なきあを
ねえ炎 お前へと手を伸ばしたらお前は指を舐めてくれるね
花びらを涙と呼べば花びらはあとからあとから流れるばかり



小野田光歌集『蝶は地下鉄をぬけて』
 「かばん」会員。「ホッケーと和紙」により第六十四回角川短歌賞歌作。写真家でもある歌人の第一歌集。
金太郎飴の断面ひしゃげてる断ち切って断ち切って過去たち
つめたさのない夏なんてあるものか さよならの著作権はぼくのだ
今日はいない君の匂いがする部屋で半同棲の定義をググる
はじめての君の怒声につつまれて防御姿勢がさまにならない
間違えた靴のままゆく舗装路が海になっても終わらない夢
泣きながら力うどんをすすってる人に遭遇したことがある
ひたすらに連なる時間 地下鉄のプラットホームに夕映えはなく
 親近感のわく日常をかろやかな口語で歌う。「さよならの著作権」「さまにならない防御姿勢」という発見も面白い。職場でのつらい体験の歌も印象深い。
朝八時半の日課が滞る資料の文字が楔形だよ
寿司詰めの思考がパンッと散ったのち約十分で動けなくなる
おもしろいことを切りあう青春にもどるだろうか 休職願

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