熾同人論 寺松滋文論

 ああいい歌だ、と思った歌の上の余白には「✓」(チェックマーク)をつけていく。私が歌集を読んでいく時のスタイルだ。歌集に収載される歌ならば、作者やその関係者の鑑識眼に基づいて基本的に駄作は排除されているだろうから、次々と✓が付いていってもおかしくはなさそうだが、文芸の現実はそう単純ではない。世の中を見る目は人それぞれのものであり、言語や知識の蓄積、想像力、趣味嗜好は千差万別なのだから、まとまってきれいな歌、上手な歌と受け止めるだけでは、✓マークは付いていかない。心をぐっと動かす何かが必要なのだ。
 歴史的に評価の定まった歌人の歌集や、現在の大家と目される歌人、あるいは様々な意味における注目歌人の歌集ででもなければ、一首一首立ち止まり、時間をかけて丁寧に向き合いながら読み進め、読み終えたときには、作者への畏敬の念に満たされるということはなかなかない。だから、若書きの華々しい時代を持たず、歌壇における評価の蓄積もないほぼ無名の高齢者の歌に、再読、再再読へと誘引され、その都度、✓マークが増えていき、初めから歌集をぱらぱらめくれば、相当の数の歌に✓がついているという事態は、かなり稀有なことなのである。これは読者としての私が歌集によって成長させられたということだ。この稀有なことを成し遂げたのが寺松滋文さんであり、これは歌壇におけるひとつの奇蹟のようなことである。大げさなことを言うと謗りを受けるかも知れないが、けっしてそうではない。その証左として、第二歌集『ことば』の批評特集で中地俊夫さんが同じような感慨を抱いたことを高揚感をもって次のように告白していることを挙げられよう。「こんなすてきなこんな凄い歌人が沖ななもさんの「熾」にいたのか、というのが私の率直な思いであった。もしこの歌集の著者である寺松滋文さんが若い頃から短歌に手を染めていたら、誰もが認める大歌人になっていたのではないかと思った」。
 そんな寺松さんの経歴を振り返ってみよう。大正十五年(一九二六年)東京板橋区で生まれる。東京の旧制中学卒業後、盛岡工業専門学校(現岩手大学工学部)に入学。昭和十九年秋に徴兵検査を受けたものの翌年春の徴兵は延期。一年で敗戦。昭和二十三年卒業。盛岡での戦後三年は友達とガリ版の同人誌を作ったりして貧しいながらの青春の記憶に満ちているという。友人はほとんど就職したが文系大学への思い断ち切れず東北大学文学部に入学。英文科で三年過ごし昭和二十六年に卒業する。ダンテ・ガブリエル・ロセッティという画家・詩人の詩が卒論。その後、水戸一高の英語の教員となり二年後、浦和転居のため埼玉に移り県内県立高校に六十歳まで勤務。その後私立高校に十年勤めた。そのころから十代に関心を持った短歌への興味が復活し、新聞投稿から始めて、七十一歳のとき沖ななもの読売カルチャー、翌年に加藤克巳主宰の「個性」に入会する。『個性』終刊後は「熾」に入会、沖ななもに師事。
 第一歌集『爾余は沈黙』の後記に氏は、「十代のころ短歌に興味があった。なぜ興味を持ったのか自分にもよくわからない。太平洋戦争中のことである。『万葉集』や茂吉の自選歌集『朝の螢』を読んだ。もちろんまともに読めたわけではない。十代最後の年、一九四六年、「世界」に桑原武夫の「第二芸術」が掲載され、強い印象を受けた。数年後、大学でその人の講義を受けたりもした。以降四十年余り短歌とは縁が切れる。その間、定型の種子が私の中で命を保っていたのは不思議といってよい。一九九七年に教職を退いたが、そのやや前から短歌を作り始めた。十代の経験が役に立ったという思いはない。まったくの初心者としての出発であった」と記す。歌集は『爾余は沈黙』(平成十五年、第五回埼玉文芸賞、第一回筑紫歌壇賞受賞)、『ことば』(同二十七年)。
 この略歴を読めば、寺松さんの作品と評の確かさ、そして歌会での語りぶりなど醸し出す雰囲気のわけを知ることができるだろう。
 まずは第一歌集『爾余は沈黙』をみていこう。「この一巻、作者の靱くて、深い意志がしかし謙虚な心のもと、古今東西の歴史・風物風土一般へ注がれて作品化されて歌となったとき、無理なく平明・着実に表現されていて、読む者の心にもそれがすがやかにしっかりと伝わってくる。そしてまた日常生活の心が随処で歌われていて、人間性、人間のぬくみもさりげなく読者にも伝わって来て、自ずと真摯な穏健な人となりが感じられる」(加藤克巳帯文より)。
 この小文がこの歌集と作者のほとんどを語っていよう。それに足しうるとすれば、この歌集がたとえば十代二十代から短歌を詠み続けた人の成熟した作品の姿というのではなく、七十代からほぼ初心者のように短歌を作り始めた人の歌集ということだ。その条件にして、かの文学性の高さである。人生や社会への洞察、言葉への卓見、短歌という形式にまとめる言葉遣いの名人のごとき手際はどうだろう。

夏のをはり薔薇に触れたる指先に血は半球をなして零れぬ
ボスポラス大橋西へと渡りつつ白日下わが裡なる亜細亜
母語といふ底ごもるひびきもつものにより秩序づけられてゐるわが生死
パイプオルガンのバッハ胸腔に満ちしまま海市のごとき街並に出づ
雪祭りといへる仮象に身を任す 滑るなよ日常がうまれてしまふ
まだかまだかと人は呼ばるるを待つ……呼ばるれば終りなるに
一瞬に五千余のにんげんが燃え補完せりわが殺戮史観を
日盛りの地に油蝉ころげゐてこの世の小さき空間を占む
水槽の人工岩にひそみゐるウツボよ存在は意味を超ゆるか
友ひとりまたひとり世を去りゆきて流れ解散のやうなる別れ

 十首だけに絞るのはたいへん骨が折れた。繰り返しになるが、再読、再再読するうち、かなりの数の歌に✓が付いていたからだ。この歌集は、読めば読むほどに味わい深くなる。氏の歌は、該博な知識に裏付けられた主知的な作品が多いので、初読ではなかなか深く入り込んでいけないところがある。一度目は✓がさして多かったわけではない。ところが、分からないまま通り過ぎた歌を、しっかり調べて読み直すと、様相がまったく変わってくるのだった。歌集に書き込まれた私の走り書きからキーワードを拾うと、知性派、該博、思索的、文明批評、反骨、迎合拒否、諧謔、言語への執着、人生の達観、等々とある。そのどれもが高いレベルで歌に昇華している。と書くと、観念的な難しい歌ばかりを書く人のように思われるかもしれないがさにあらず、基本はリアリズム、日常の現実の諸相であり、それらは平明な言葉を選んで表現されている。観念ばしった短歌を極力詠まないように心がけているように思う。
 ちなみに、この歌集での私のベストスリーは、パイプオルガン、雪祭り、そして水槽とウツボの歌である。とりわけパイプオルガンの歌は、近藤芳美の代表歌「たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき」に並べて、後世に残したい音楽の名歌であると思う。

 第二歌集は『ことば』である。シンプルな名前だが、逆にインパクトが強い。

メフィストフェレスに会はぬまま老いて男が朝の林檎食ひをり
父とともに相撲見てどぢやう食ひしことありき三つが今も繋がる
ことば持つヒトはまた名を付けるヒト 世界とは名の集合である
朴の木の落葉地に舞ふ われを出でて最後となるはいかなる言葉
「私」は比喩に過ぎないほかのひとあるいはもののそれらの網の
雨降ればコンビニへ傘さしてゆくおよそ絶唱といふを好まず
かはせみがゐる「かはせみがゐますね」といふかはせみを見てゐる人に
ぼんやりと見てゐる窓に宅配の車が止まるやうに来るのか
「文明の入り口か」「なれの果てだらう」夜更け入りゆくセブンイレブン
なぜ歌を詠むかと聞かる読んでもらひたいほめられたいからさと答ふ

 ことば。思索の糧としての日本語、知的な道具としての日本語、言葉遊びの道具としての日本語、感情の媒体としての日本語。「ことば」と「人生」への深い洞察の歌集だ。情に流れぬ理知的なところ、文学、絵画、音楽など芸術に関する知識の深さ、歴史や社会現象へのあくなき関心と批判精神など、これらが歌集の錘のように作用している。
 熾の批評特集では、本稿冒頭の中地俊夫さんの言葉のほかに、次のような文章が寄せられた。「一斉に拍手されるものを好まず、ベストセラー作歌の村上春樹などは読まぬ作者らしい硬骨漢ぶりがいい」「作者の知性は、声高に日本の状況を批判することを好まない。読む人が読み取ってくれれば、それでよいのであろう」(松村由利子)、「若い頃から短歌に対する興味、愛着を持ちつづけ、その間に培われた学識、古今東西の文化、文学、美術への造詣深くそれが高齢になって始めた短歌に花開いた。茂吉をはじめ短歌の基礎をしっかりふまえ、正統派でありながら現代短歌の面白さ新しさをもつ」(藤林雪子)。
 以上二つの歌集を通して特筆すべきはやはり、七十歳を過ぎてからの、ほぼ初心者としての出発でありながらの、この到達点の高さである。
 以上、寺松さんの短歌を見てきたが、忘れてはならないのは、知識と想像力に裏打ちされた氏の批評の的確さである。私の知る限りまとまった評論は多くないようである。『個性』創刊五十周年記念特集号における「戦後短歌を考える ―詩・俳句と短歌―」だけが私が入手できた寺松さんの歌論だ。この文章を読むと、並々ならぬ文学批評精神をもっていることが分かる。短歌とのつきあいは浅くとも、おそらく英文学をはじめ西欧文学、そして日本文学とのつきあいは深く長かったのではないか。たしかな批評眼はそこから培われたのではないか。若き日に桑原武夫と関わったことも大きいように思う。たった一つの評論を読んだだけでこんなことを言うのもなんだが、評論に動員されている言葉がとても正確である。これは小説や評論を真面目にたくさん読んできた人の文章だと思う。短歌からは長く離れていたとしても、文学への傾倒は続いていたのだろう。
 このような批評眼を持ちながら、日々の鑑賞はとてもやさしい。それは、浦和での毎月の歌会での寺松さんを見ていれば明らかだ。そして、熾誌上の作品研究での評もそうである。問題点はしっかり指摘するが、読み取ろうとする努力、背景を想像しようとする努力が涙ぐましいほどである。かならず作者の良いところに目を向け、こうしたらもっと良いものになるんじゃないかと教えてくれる。歌会で難解なとりつく島のないような歌が登場すると、誰もがお手上げ状態の重い雰囲気に包まれることがあるが、そんなとき寺松さんが「私の勝手な想像ですが…」と言って、新しい回路を見つけて読み解いていく姿には、感銘を受けること屡屡である。

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