「熾」2021年6月号、7月号連載
評論「いまの時代に長歌を詠むこと」

<上>
 短歌とつきあい始めて三十年以上がたつ。この間、古典から現代までたくさんの歌集を読んできたが、このところ相次いで、現代歌集では滅多にお目にかからない「長歌」に出会った。インタビューをさせてもらったり、かつて同じ結社に属していた大先輩であったりした、いわば縁浅からぬ歌人ふたりが発表していた長歌だ。よくよく思い返してみると、滅多に見ないどころか、もしかすると初めて見た現代歌集中の長歌かもしれない。なぜ、長歌に私の目が惹きつけられたのか、そしてなぜ、そのことについて書こうと思ったのか。そんなあれこれを、論と言うより随想のように、思いの浮かぶままに書きとめていきたい。舞台裏を明かせば実は、一回完結と思って企画したのだが、いざ勉強してみるととても一回では収まりきらないことが分かり、すでに二回目も前提している。そこで決着を付けられればよいがそれも分からないという、そんな見通しの中にありつつ書く本稿である。
 島田修三、石川恭子という現代歌人ふたりの長歌を紹介する前に、まず長歌とはなにか、どのような歴史を経て来たかについて、簡単におさらいしたい。
 長歌は形式的には、その名の通り、「長い歌」である。古くはさまざまな形があったが、万葉集の時代になると、五七を三回以上繰り返し、最後は七音で締めくくる形に定まる。長歌の後には通常、五七五七七の短歌形式の歌が付く。一首の場合が最も多く、二首の場合もある。長歌の内容の補足や反復の場合もあるが、かなり手がこんだ反歌の例もある。歴史をみると、記紀歌謡にも多くの長歌形式のものが見出されるが、『万葉集』の歌人柿本人麻呂によって、最も文学的に完成された長歌が多く詠まれた。山上憶良、大伴家持なども特色ある長歌を残した。
 しかし,人麻呂の時代を頂点として、古今集では僅かにその形式の歌が見られるというほどに形骸化し、平安時代以降は衰微した。近世に入り、国学再興の機運の中で万葉調が唱導された当時は、賀茂真淵を筆頭に長歌の試みが行なわれたが、単にいにしえぶりの歌を学び、その精神を体得する手段として以上の積極的な意味は認められず、その数も僅かしか残されていない。近世、近代では良寛の作品がやや注目される。
 以上が様々な文献から得た教科書的な知識である。その後の時代については、橋本喜典の考察が示唆に富むので引用する。「明治に入って正岡子規は短歌革新の途上で長歌の試作を唱え、幾つかの作品を詠んだ。左千夫、節などにも試作的なものが見られるが、いずれも擬古的なものであり、結局長歌の基盤は近代精神と相容れず、殆ど消滅したといっても過言ではなかった。そうした中にあって、窪田空穂はこの古代的形式に挑み、それを現代に生かすべく、その全生涯にわたっての作歌活動の中で百四十一首の長歌を残した」(「空穂長歌の考察~その挽歌を中心に~」より。
 長歌についての初学的な知識を共有したところで、島田修三と石川恭子、現代歌人ふたりの長歌をみていこう。まず島田修三の最新歌集『秋隣小曲集』から、亡き妻を偲ぶ長歌(※1)。

 富岡海岸
追憶に時をり浮かぶ、今はなき富岡海岸。横浜に、ただひとつ残る天然の浜辺なりしが、半世紀前にぞ消えし。人の手に、あはれ沖まで埋められて、小洒落た街に成り果てぬ。浜辺とともに、還らざる少年時代の朝に夕に、わがもとほりし砂浜や、掘れば浅蜊の潮吹きて、八幡宮のきよらなる、入り江は小魚を游ばしむ。その八幡の小径上り、岬に出づれば、眼下に君の家見ゆ。君の家を憧れながめ、砂浜にわが下りゆけば、賢からぬシェパードを率て、裸足なる君と遭ふこと時にありき。遭ひはすれども、少年の身はこはばりて、ひとことも口のきけねば、眼を伏せて、見るともなしに会釈かはし、ことさら気取り、すれちがふのみにぞありし。去年の夏、君ゆくりなく逝きたれば、かかる小さき追憶の、われを涕かしむ、涕かしめやまず。
 反歌
少女はや憂き世をのがれ少年はひとりし後れ老いてゆくなり
君のゐない日々をまぼろしにざはめきて十五歳の潮騒、富岡海岸

 こうして文字をタイピングしていると泣けてくる。思う存分泣き泣き歌うからに、あなたも涙にまみれて聞いて欲しいと訴えてくる。声を出して読んでいると、だんだんにこの悲しみの物語に没入し、陶酔感すら生まれてくる。
 『秋隣小曲集』は著者の第九歌集だが、第八歌集『露台亭夜曲』とほとんど日をおかず出版された。いずれもほぼ四年ずつ、ほぼ編年体でまとめられている。『露台亭』も魅力的だが、私には『秋隣』への愛のほうが強い。『秋隣』の四年間のうちの平成二十九年夏、著者は四十年連れ添った妻を亡くした。あとがきには「血管系の病気でほとんど突然死に近い最期であった。私の目の前で倒れ、一度も意識の回復しないまま、三十二時間後、救急車で搬送された大学病院の集中治療室で息を引き取った」という。いくつか歌を引く。

四十年を小さき鉢に生き継げる皐月つつじに水呑ます俺は
微笑みを浮かべ彼岸へ去りゆきぬこゑなき三人を岸辺に立たせ
だしぬけに君は彼方へ行つてしまひ此方で俺の哭く夜がある
なつかしくその思ひ出を歌はむ日あらなあるべし大根煮るなり

 これらの挽歌がつくられた翌年に詠まれたのが長歌「富岡海岸」である。この長歌を読む際に、そしてその長歌への私の感想を読んでいただく際に前提に置いてほしいことは、島田修三が日本古典文学研究者、万葉学者であることだ。日本の古典文学、和歌の歴史、古語、そういったことへの造詣は深い。彼の歌や論には確固とした古典知が基礎にある。
 長歌は「追憶に」という初句で詠い出される。そしてすかさず「今はなき」。一気に自分を悲傷の世界に解き放ち、読者をその世界に呼び込む。短歌でこれをやられたら、歌会での反応は予想できる。情に溺れるのはけっこうだが読者はそんなセンチメンタルについてはこないよ、みたいなあれだ。しかし長歌だとなぜか、そんな批判精神がひっこむような気がする。きっと、その「なぜか」が長歌の本質なのだろうが、その問題への切り込みは後にまわして今は先に進む。詠われたのはまだ富岡海岸の幻影だけである。(富岡海岸は日本の海水浴場の発祥だという)。現存している海岸ではなく、すでに消えた海岸だ。想い出にのみある海岸、それを追憶する歌人。ただその懐古だけでは終わらないだろうという予感、雰囲気がすでにある。喪ったものは海岸だけではないだろうと聞き手は心構えしはじめている。小説でいえば布石のようなものだろうか。「あはれ」「成り果てぬ」の間に置かれた「小洒落た」という現代口語に意表を衝かれる。文語のみで格調高くゆくかと思っていたから、唐突と言ってもよい印象を受ける。これはもちろん作者の明確な意図、企みであろう。冷静な批判精神の存在をほのめかしていると私はとった。セピア色に染まりかけていた世界に急に過剰な光が当てられたような感じだ。そして少年時代の回想。浅蜊、小魚といった生物の具体性が気分に流れすぎるのを効果的に抑制する。「八幡の小径」「岬」を経て開けた世界にある亡き妻「君」の家。砂浜に下りてゆく。シェパードを率いて砂浜を歩む君とのたまさかの会い。口もきけなかった。目を伏せるしかなかった。ああ時は流れて、俺はいま、その君を喪った。あの富岡海岸もない。君も富岡海岸もない憂き世をひとり老いゆく俺なのだ。反歌も含め、このような物語と感情であろうか。
 現在、短歌を詠む者は、どのようにしてその歌を発表しているか。題詠、連作、詞書などの諸形態を駆使して、短歌一首独立を標榜しつつも、一首だけでは表現しきれない思いをいかにして表現するかに腐心している。富岡海岸に盛りこまれた素材と感情を、時間の経過にしたがった感情の盛り上がりとともに表現しようと思いたったとき、果たして、詞書、連作でその思いを成就することは可能だろうか。
 詞書は、それが入る度に場面が切り替わるような気がする。また、詞書の語り手の存在が前面に出てきて、作中人物の心情に寄り添って昂ぶっていた読者の心を正気に戻すようなところがある。一方、連作は一首一首の完結を目指すが故に、ひとつひとつ、こまぎれの世界の完結が図られており、物語性、叙事性に立脚した、クライマックスに向かう心の表現、たとえば交響曲の第四楽章のフィナーレ(ブラームスの四番がふさわしい)に向かうような心のエスカレーションの表現には向かない。
 以上、論理的にではなく、思い付くがままに書いたが、短歌と長歌の違いを現在の芸術にたとえるならば、写真と動画(短篇映画)がいいかもしれない。動画といってももちろん、撮りっぱなしの映像ではなく、芸術的意図にもとづき、しっかり編集された動画のことである。富岡海岸を動画を想像しながら読み映像を脳裏に描き出していると、いかにも短篇映画のようになるだろう。そしてそこには音楽が流れている。バックグラウンドミュージックだが、たとえばシューマンの「トロイメライ」、ショパンの「わかれの歌」、ベートーベンのピアノソナタ「悲愴」、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」などが流れているように私には感じられた。日本の歌謡曲ならザ・ワイルドワンズの「思いでの渚」やサザンオールスターズの「YaYa あの時を忘れない」なんかだろうか。
 また、長歌は文語の韻文でなければならないか、という問題もある。仮に富岡海岸を口語の散文に翻案してみたらどうなのか。かつて富岡海岸を歩きながら君の家にまでたどった時間経過、そして、歌を詠む現在から過去をあぶりだそうとする時間表現。この二重の時間表現を、叙事的でありながら情の流れるままに表現しようとすることが口語韻文、または口語散文でできるだろうか。
 おそらく口語韻文ではよほどの表現力がなければ、音楽を響かせることは難しい。まるで古典文芸の対訳を読むような味気なさ、物足りなさを感じるだけだろう。では、口語散文で物語るのはどうか。富岡海岸に出てくる事物、時間経過を散文で説明するのはそう難しくないだろう。散文は説明、描写に強い記述方法だからだ。しかし、作者は説明したいのではない。読者は説明を聞き、事態を理解したいのではない。詠って聞き、悲しい思いを共有したいのである。そのもっとも強い媒体が音楽である。文語韻律、五七調のもつ音楽が必要なのである。
 古典に通じ、文語を使いこなすことができ、感情の渦に巻き込まれている「俺」を冷静に物語化できる実存「われ」が島田であり、そういう島田であるからこの長歌が読者の心をひっつかみ震わせるのである。
 次回は昨年亡くなった石川恭子の最終歌集『Forever』から長歌二首を鑑賞し、窪田空穂の長歌もみていきたい。「叙事」がなにゆえ詩歌となり得るか、そのへんも考えたいと思う。
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<下>
 石川恭子の長歌をみるまえに、本当は本稿第一回目で触れるべきであった長歌があったことに気づいたので、まずそれを紹介しよう。柿本人麻呂の「石見相聞歌」である。

石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚取り 海辺をさして にきたづの 荒磯の上に か青く生ふる 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ寄せめ 夕はふる 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万度 かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひしなえて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山
(大意)石見の海の 角の入り江を 浜辺がないと人は見るだろう 干潟がないと 人はみるだろう どうでもよい 良い浦はなくても どうでもよい 良い潟はなくても (いさなとり=枕詞、意味に関係なし)海辺を目指して にきたづの 荒磯のほとりに 青く生えた美しい藻 沖の藻は 朝には風こそ寄せるのだろう 夕には 波こそ来寄せる その波と共に なよなよと寄る 美しい藻のように 寄り添い寝た妻を (つゆじもの=枕詞)置いてきてしまったから この道の 幾つもの曲がり角ごとに 幾度も 振り返り見るけれど いよいよ遠く 里は離れてしまった いよいよ高く 山も越え来てしまった (なつくさの)思いし萎れるように 私を偲んでいるだろう 君の家の門が見たい 平伏せ この山 

反歌二首
石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば

(『よみたい万葉集』村田右富実監修、西日本出版社より)

 「石見の海」から「玉藻なす」までの二十三句が「寄り寝し妹を」にかかるという異様な構成とのことだ。「妹」の字が出てきたところから調子が切り替わり、山を越えたところで一気に感情を高揚させ、最後、「靡けこの山」という強い言葉でしめくくる。感情をためるだけためて、最後に最高潮に達する。短歌が時間を切り取る写真のようなものだとすれば、長歌は時間の流れを見る動画のようなものと言えるだろう。歌の展開を景色や心情の流れに沿って見ていくと、海の情景↓(クローズアップ)海辺の藻の様子↓(オーバーラップ)そんな藻のような妻のこと↓妻を置いてきた景色↓思いを山にぶつける、こんな感じだろう。意味的な結論は、恋人の家が見たい、ただそれだけのことだが、意味や結論だけいっても風情がない。最後の言葉に行き着くまでの景色と心情の変化を楽しむのが長歌鑑賞のポイントだろう。長歌には通常、一首か二首の反歌が付く。長歌の内容を繰り返したり、すこしはみだしていったりと締めの役割を果たすが、反歌があって初めて全体に言いたかったことが見えたりもするという。この長歌の場合、第一反歌は回想、第二反歌までいくと悲しみが落ち着いて、自分の心の中を詠む内省的な歌になっている。この反歌二首が短歌としてあったなら、それまでの長歌はほんとうに必要だったのかという疑問も出てこようが、必要かどうかと問うこと事態、現実的な経済観念、効率主義にむしばまれた現代人のものの感じ方なのかもしれない。やはり、時の経過、景色のうつろい、心のゆらぎそんなものを調べとともに味わいたい。
 寄り道ついでに、この石見相聞歌を言葉のリズムから語っている小池光の分析を紹介しよう。小池は万葉集の長歌を読むと次第に息苦しくなってくるようなリズムの迫力を受けるという。要約するとだいたいこのようなことになる。
 長歌の息苦しさ、大げさにいえば異様な迫力という感覚は、言葉のリズムの上から生ずる。五七調が貫徹している。五七調は荘重、厳粛な感じを与えると言われるが、これは息苦しいという感覚を別の言い回しにしたものである。五七調は七五調とは違い、読むのに不自然な呼吸を強いられる。「五音句も七音句も句が句として成立するにはそこに同一の時間で読むという暗黙の前提があってはじめて可能になる」という基本原則があり、すると五音句には必然的に「間」(休止)が加わることになるが、この「間」(●)をどこに置くか。「浦なしと●/人こそ見らめ/潟なしと●/人こそ見らめ」このように間(●)を句尾に置くと、●で意味が分断されてしまう。ではどうするか。●を句頭に置くしかない。「●浦なしと/人こそ見らめ/●潟なしと/人こそ見らめ」というように読むところに五七調のリズムが生まれる。有音からではなく「間」からフレーズの読みが始まるから、これは自然ではなく、読むのに意志の力を必要とし、踏ん張らなければならない。この踏ん張る作用を求められることが日常語からの飛躍をもたらし、それが息苦しさ、荘重、厳粛という雰囲気につながる。七五調の歌曲「荒城の月」(はるこうろうの/はなのえん/めぐるさかずき/かげさして)や、島崎藤村の「初恋」(まだあげそめし/まえがみの/りんごのもとに/みえしとき)などのなめらかさと比べてみたい。

 前置きが長くなった。では、石川恭子の歌集『Forever』の中の長歌を読んでいこう。できれば音読してもらいたい。(全句を紹介できないのが残念)

 弁当箱
今を去る 八十年の わが小さき 弁当箱は 朱金いろの 漆塗りにて 楕円なる 雅びの器 その蓋の 左下隅に 金文字に 姓と名前を うつくしく 刻印したり 父ははの 遅く得たりし 我はしも 初の児なれば 入学を 喜ぶあまり 選びつつ 調じましけむ 

 この後、皆と同じアルマイトの弁当箱にしてほしいと頼み続けたことなどが歌われ、思いは子を思う父母の気持ちの深さ尊さに収斂していく。そして

今はしも 一生のはての ふとしたる 夜半の目覚めに ほとばしる 涙ははるか 父ははの恩

 と終わるのである。省略部分も含め、総句数は六十七。

 反歌
父ははの夢の多くを我つたなく実現せざりしことの悲しさ
迫り来し戦火の中に失ひき小さき弁当箱わが目に残る

 この長歌、石川恭子の精巧で理知的、リリシズムあふれる短歌の数々(たとえば〈地の上に送られ来しわが少女汝に幾千の祖の貌照り昃る〉〈車なき休日の道路かがやけり千万の思念ここを走りし〉)と比べると、意味だけをみれば陳腐であるように感じ、リズム的にも冗漫であるように感じられないことはない。しかし先ほど述べたように、長歌は音楽性と時間の経過を味わうものであろう。黙読だけしていたり、事実要約して散文化したりしては元も子もないのである。そしてなにより、人生の最晩年に際して、なぜ長歌をうたおうと思ったかということに思いをいたさなければならないだろう。短歌だけではだめだったのである。やはり長歌のもつ時間的守備範囲の広さ、霊的なものとの交感、音楽性が導く永遠への思いといったことがあったのではないだろうか。
ちなみに石川の第一歌集『春の樹立』の冒頭を飾る歌は〈円陣パスボール落ちくるひとときのしじまをひそと匂ふ桐の花〉、生前最終歌集『Forever』の最後の二首は〈ゴッホ描きし「夜のカフェテラス」の一隅にうつつにあれど慰めがたし〉〈旅の日のアルルの古き教会に幾世の人にまじれる祈り〉である。長歌とこれら短歌を読み比べれば、ふたつの和歌の本質的な違いが浮かび上がってくるだろう。短歌は瞬間を切り取り、瞬間を永遠とする志。長歌は時間の波間にただよう存在の歌謡。そういったところだろうか。

 もうひとつの長歌。これまた六十七句。この一致は意図的であろう。

 黒き潮
わが生れし 日の本の國 翳り来し 少女の日々は たちまちに 真闇なしゆき 目もくらむ 戦ひの世に いつの日か 終りも知らず ひたすらに 国ともろとも 果てなむと 思ひし日々ぞ   (以降省略)

 反歌
戦ひの暗き世に清しき学びの舎少女らひたぶるに無線機造る
部品待つひとときありて図書室にわれら学びき苦戦の日々を

 島田修三と石川恭子。現代歌人ふたりの長歌を読んできた。わずか三作品、しかも全句は紹介できていない。不十分な考察ではあったが、すこしは長歌に興味をもってもらえただろうか。最後に、長歌を論ずるにあたって窪田空穂をけっして忘れてはならないということだけを紹介して、本稿を閉じたい。橋本喜典「空穂長歌の考察―その挽歌を中心に―」によれば、近代的精神とは相容れずほとんど消滅しかけた長歌というこの古代的形式に空穂は挑み、それを現代に生かすべく、全生涯にわたって百四十一首の長歌を残した。空穂と長歌についてのこの考察はインターネットで検索すれば読めるので是非読んでいただきたい。
 また、三井修は「長歌再考」という文章で、座談会「老年という時を見すえて」での永田和宏の「何かまとまったことを言いたいときに、長歌の方が自分を昂揚させて、乗せられるという感じだったかな。どんどん乗ってポテンシャル高くなっていくのがやってるとよくわかる」というコメントをひいて、「長歌を幾つか作ってきたが、まさにこの永田のコメントの通りだった。短歌を作ろうとしたが、断片的な言葉は浮かんでくるものの、どうしても短歌に纏まらない。そのうちに、それらの言葉を繋いでいくと長歌になることに気が付いた。一旦、長歌が出来始めると連想が連想を呼び、言葉がつぎつぎと繋がってきた。そこで感じたことは、やはり短歌は抒情詩であり、叙事的な事を述べようとすると自ずと長歌になってしまうということであった」と振り返り、短歌では歌い難い内容を表現できる長歌にをもう少し見直してもいいと語っている。熾の誌面にも、短歌や散文だけでなく、長歌の欄があったら楽しそうだ。ただ、句数の制限がないことを自由で楽しいと感じるだけではなく、逆に苦行ととらえる厳しさが必要かもしれない。三十一音であれば小さな傷ですんだものも、長く句を積み重ねれば、読むに堪えないものになりかねない。詩心がベースにあるのは当然として、最低限、文語文法と古語の語彙を勉強しなおす必要はあろうと個人的に思っている。いつか長歌を熾に発表できたらと思うが、空手形にならぬよう早々に着手したい。

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